ポーランドの歴史・中編

 
第二次世界大戦
世界恐慌の打撃からようやく立ち直りかけたのもつかの間、1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランド・ドイツ不可侵条約を破ってポーランドに侵入し第二次世界大戦が勃発、ソ連も独ソ不可侵条約に付された秘密条項に従ってポーランド東部を占領した。こうして独立回復から20年余りでポーランドは再び分割され、地図から消えた。政府首脳は国外に逃れ、ロンドンに亡命政府を樹立し、国内の抵抗運動を指揮した。

第二次世界大戦が旧ポーランド領の住民に及ぼした被害は甚大なものであった。中でも苛酷な運命に直面したのはユダヤ人であった。ゲットーに隔離されたのち、彼らの多くはオシフェンチム(アウシュヴィッツ)やマイダネク等の絶滅収容所に送られて虐殺された。ポーランド人もまた国内で地下闘争を組織し、また国外では連合軍の一員として各地を転戦し、多くの犠牲者を出した。残虐な統治を行なったのはナチスだけではなかった。ソ連占領下の住民も収容所に送られたり、虐殺されたりして、多くの人命が失われた。特に1940年に4000名を越えるポーランド軍将校がカティンの森で殺害された事件は、その後ソ連政府が真相を隠し続けたこともあって、ポーランド人の対ソ感情を大きく悪化させる一因となった。

1939年8月23日に締結の独ソ不可侵条約の秘密議定書には、ポーランド分割に関する密約が交わされた。9月1日、ナチス・ドイツ軍が宣戦布告なしにポーランドへ侵攻、第二次世界大戦が始まった。同、9月17日ソ連軍がポーランドに侵入、国土東半分はソ連に併合された。
1930年代に入って以降、ソ連に敵対し、ドイツとの同盟を外交政策の基軸に据えていた日本にとって、ポーランド侵略と第二次世界大戦に道を開いた1939年8月の独ソ不可侵条約はまったく予想外の事件であった。当時の平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」の一言を残して総辞職。

第二次世界大戦とポーランド
西側からナチス・ドイツに、東側からソ連に攻め込まれたポーランドの艱難は筆舌に尽くし難い。「カティンの森」ではスターリンの指令により、。一万数千のポーランド将校、警官およびび役人が、秘密裏にNKVD(内務人民委員部)の手で処刑された。同様の凶行はハリコフとミェドノイェでもペレストロイカ後に判明。いわゆるホロコーストの結果、アウシュヴィツだけでも百万人以上のポーランド国民が虐殺された。人口の22%、600万人あまりという戦争犠牲者、全滅に近いワルシャワの破壊等はその一端に過ぎない。
ドイツのポーランド侵攻直前まで日本は独ポ間の危機回避に努めたが、果たせず。日米開戦直後の1941年12月11日、ポーランドのロンドン亡命政府は日本に宣戦布告、形式的にせよ両国は交戦国となった。他方、水面下での日本・ポーランド間の諜報協力は続行された。大戦初期、駐カウナス(リトワニア)領事杉原千畝は、本省の不同意を無視して、数千のユダヤ系ポーランド市民に通過ビザを発効、多くの人命を救った。軍事面の協力がその背後にある。

「ヤルタ協定」がソ連の東欧支配を黙認した結果、巨大な犠牲を払った戦勝国の地位から逆転、新たなポーランドの悲劇が始まる。ソ連に併合された東方領土は戻らず、代わりに北部および西部で旧ドイツ領が割譲されて、ポーランドは全体として約200キロ西へ移動した。

人民共和制

ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ国家評議会議長1985-89
ポーランドの解放は、そのソ連が主導権を握って行なわれた。現在のポーランドの国境線は1945年2月のヤルタ会談で決まったものだが、大戦間期の領土と比べると、東方の領土をソ連に譲る代わりに西方でドイツから領土をもらうかたちで、西側にずれている。ナチスがユダヤ人を虐殺し、非ポーランド系住民の比率の高かった東部地域を失ったことで、戦後のポーランド国家は、ほぼ単一宗教・単一民族国家となった。民族問題がなくなった代わり、ポーランドはソ連の勢力圏に入り、東西冷戦の中で、国民の自由な意志に基づいて体制を選択する余地は限られたものとなった。戦後成立した国民統一政府には、当初は亡命政府の指導者も参加していたが、次第に排除されていった。1948年、ポーランド労働者党(共産党)とポーランド社会党左派が合同してポーランド統一労働者党を結成して共産党一党独裁体制が成立、1952年には新憲法が制定されて国名はポーランド人民共和国となった。

共産主義下のポーランド
終戦前夜の1944年、早くもソ連はNKVDを中心に対ポーランド戦後工作を開始したが、戦後の政権はその手先である共産党の主導となる。1944年夏、ワルシャワ蜂起で苦闘した世界最大規模の地下組織「国内軍」系の勢力は、反ソ的として徹底的に弾圧された。1948年12月、労働党と社会党のいわゆる「社共合同」で結成された「統一労働者党」の名の共産党支配が確立、その後は、計画経済の導入、農業の集団化、ソ連一辺倒の外交政策、警察権力の強化、イデオロギー的締め付け等の体制固めが進行した。しかし、消長を伴いつつも政権への抵抗は続いた。戦後東欧諸国のなかで、ポーランドほど繰り返し国民の異議申し立てが体制を揺るがした国はない。
ソ連でのスターリン批判、その後の「雪どけ」は1956年6月のポズナン事件で爆発し、自由化・民主化の要求が成果を挙げた。「右翼的民族主義偏向」で48年に党から追放されたゴムウカはこの波に乗り、同年10月、フルシチョフらのワルシャワ乗り込みの緊張下、政権復帰を果たし、農業集団化の解消などの改革を通じ、脱スターリン化を進め、熱狂をもって迎えられた。
日本とポーランドの国交回復に関する協定に基づく国交修復は、1957年秋以降である。戦後の復興をめざす日本では、フランシスコ会でポーランド人のゼノ・ジェブロフスキ修道士が戦争孤児や貧民街における救済活動に挺身した。
ゴムウカ体制はやがて硬直化し、カトリック教会との対立、民主勢力への弾圧、検閲の強化が進んだ。1968年、首都ワルシャワの学生・知識人が抗議に立ち(3月事件)、次いで1970年、北部の工業都市グダンスクその他の労働者が大規模なストライキ闘争を展開すると、ゴムウカは退陣を迫られ、ギエレク政権が登場した(12月事件)。ギエレクは、イデオロギーを棚上げして経済の高度成長に努め、国民生活の改善を図った。成功するかに見えた新政策も、西側世界の石油危機の直撃を受け、70年代後半には破産、76年、またも労働者の大規模な抗議行動が起こる(6月事件)。この機に誕生した「労働者擁護委員会KOR」などの指導下に反体制運動は徐々に組織化されて広がり、無策の共産政権は半身不随の症状を深めた。
1978年、通商航海条約(80年発効)、科学技術協力協定(78年発効)、文化、教育交流取極(78年発効)

その後、1956年、1970年、1980年に労働者の大きな暴動が起き、そのたびに指導者が交替した。とくに1980年の自由労組「連帯」の誕生と翌年末の戒厳令の布告は、ポーランドの社会主義体制を大きく揺るがせるきっかけとなった。1989年2月、政権側は「円卓会議」によって「連帯」との対話を再開し、6月の総選挙の結果、統一労働者党は惨敗、社会主義体制は崩壊し、現在の「第三共和制」が誕生した。