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ポーランドの歴史・前編 | Japoland

ポーランドの歴史・前編

 
北はバルト海に臨み、西はオドラ(オーデル)川とニサ(ナイセ)川、南はスデティ(ズデーテン)山脈からカルパティア山脈に連なる山並みに囲まれている。南のチェコとスロヴァキアとの国境沿いを除けば、ほとんど高い山はない。面積は約31万k?、日本の国土から九州と四国を除いたくらい。首都ワルシャワの緯度は北緯52度だから、日本の近くでいえばカムチャッカ半島の先端あたりということになるが、気候は表にみるように、高緯度のわりにそれほど厳しくない。冬は寒いときには?15℃ぐらいまで気温が下がるが、そんな日が何ヵ月も続くわけではなく、たいていは?5?+5℃あたりを上下している。冬の間は厚い雲に閉ざされた日が多いが、雪はそれほど積もらない。暖房設備がしっかり整っているので、氷点下の日でも建物の中はいつも暖かい。冬が長い分、春の訪れは感動的で、街中がたちまち鮮やかな緑に包まれ、色とりどりの花々が一斉に咲き出す。夏は暑い日には30℃を越えるが、湿度が低いので爽やかで過ごしやすい。秋は木々の葉が黄色に染まり、「黄金の秋」と呼ばれる。

この国には現在、約3、800万人の人々が住んでいる(首都ワルシャワの人口は165万人)。言語はポーランド語、宗教はカトリックが9割を占める。今日のポーランドはほぼ単一民族国家といってよいが、これは、以下に述べるように、ポーランドの一千年に及ぶ歴史の中ではむしろ例外的なことである。

今日のポーランドの地に西スラヴ人が定住していたことがはっきり確認できるのは紀元後6世紀から7世紀のことである。もちろんそれ以前にも人は住んでおり、紀元前13?4世紀にかけては「ラウジッツ文化」と呼ばれる独自の文化を築いていたのだが、どのような民族系統の人たちなのかよくわかっていない。9世紀頃から西スラヴ人の一派であるポラーニェ族が台頭し、やがてピャスト家を中心に周辺の部族を統合して統一国家を形成した。これがポーランド国家の起源である。ピャスト家のミェシコ一世は966年、キリスト教に改宗し(「ポーランドの洗礼」と呼ばれる)、1000年にはグニェズノに大司教座が設置された。このときポーランドがローマ・カトリックを受け入れたことは、その後の歴史にとって大きな意味を持った。第一に、これで西隣の神聖ローマ帝国はキリスト教布教を理由にポーランドに介入することができなくなり、ポーランドは国家の独立を確保することができた。

ピアスト王朝
ミェシュコ? ポラニェの公-992
ゲルマン民族大移動により空白となった地(エルベ川沿い)にチェコ人やスロヴァキア人と並んで、「西スラヴ人」に属するポーランド人が移住。しかし、その後再びゲルマン民族がエルベ川の東に進出を始め、西スラブ人のゲルマン化が進む。それに対抗し、ポラーニェ族(平原の民(ポーランド語では「ポルスカ」)という国名は、「ポーレ」(平野、耕地)という語に由来し、「平原の国」を意味する。)が西スラブ民族の統一をはかり、ミェシェコ?(ポーランドで最初の王朝ピャスト朝の王)が同じスラブ民族のチェコ公・ボレスラフの娘・ドンブルフカ(ドブラバ)と結婚、チェコの聖職者ヴォイチェフにより966年に洗礼を受け、ポーランドに西方キリスト教を導入、ローマ直属の司教座をポズナンに設置する。これにより、ポーランドは、東隣のロシアと違って、ラテン文化圏の中に位置することになり、神聖ローマ帝国(後のドイツ)の異教徒討伐の口実を封じ、オットー大帝率いる神聖ローマ帝国のポーランド進出を未然に防いだ。

ボレスワフ勇敢公フロブリ ポーランド公992・チェコ公1003-04・ポーランド王
神聖ローマ帝国皇帝・オットー?が聖ヴォイチェフの墓参りを兼ね、ポーランドのグニェズノを訪れ、グニェズノ大司教座設置を認める(ローマ教皇を頂点として大司教、司教、司祭と階級制度を形成している)。これにより、ポーランドは教会の面で正式に独立。さらに、1025年ボレスワフフ?世はローマ教皇から王冠を下賜されグニェズノで戴冠式が行われる。また、ボレスワフフ?世はオットー?世が急逝するとチェコを支配下に入れ、一時キエフも占領するほどの勢いを示す

ボレスワフ豪胆公 ポーランド公1058・ポーランド王1076-79後

この頃教皇庁と神聖ローマ皇帝との間で聖職叙任権を争う闘争が起こる。教皇グレゴリウス?が当時ふつうに見られた金銭をもって高位聖職につく慣行を聖職売買と批判し教会人事権を掌握していた神聖ローマ皇帝のハインリッヒ4世を批判し破門する。ハインリッヒは北イタリアのカノッサに教皇を訪ねて破門の解除を乞うというカノッサの屈辱。1077年
ボレスワフ?世はグレゴリウス?の側にたち、クラコフ、ヴァヴェル城内にある大聖堂中央に祭られているポーランド第2の聖人・スタ二スワフの権力拡大を恐れ殺害。これにより、この功績により王冠えてボレスワフ?世は豪胆公という称号を得る。

ボレスワフ口曲公
ボレスワフ?が複数の息子たちにポーランドを分割、かつ国家としての統一を保つため、ピアスト家の最年長者がポーランド大公位に就き、国家を代表するという原則を定める。12世紀前半から王家内部の対立によっていくつかの侯国に分裂した。

シロンスクのピアスト家 ヴワディスワフ?追放王・ポーランド大公1138-46
ヴィエルコポルスカのピアスト家 ミェシュコ?老公・ヴェルコポルスカ公1138・ポーランド大公1173-77
マウォポルスカ、マゾフシェ、クヤ-ヴィのピアスト家 カジミェシュ?公正公・サンドミェシュ公1167・ポーランド大公1177-94

へンリク敬虔公 コンラト?マゾヴェツキ
この後、ピアスト家の子孫がふえるにつれ、王家内部の対立から国家の分裂が進む。ポーランド再統一を目指したシロンスクのヘンリク?世敬虔公も1241年モンゴル軍とのレグニツァ(ワールシュタット)の戦いで戦死。元寇(1274/81年)に先立つ 1268年、元からの国書がこの件に触れて「ポーランド」に言及し、ポーランドの名が日本に伝えられた最初とされる。また、プルシ人の遠征がマゾフシェと東ポモージェに被害を齎し、これに手間取っていたマゾフシェのコンラト?世マゾヴェツキはドイツ騎士団にへウムノ地方の贈与を代償にプルシ人の教化と征圧を依頼した。しかし、この戦う修道士の団体は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ?世から全ての征服地を支配する権限を得て1230年にへウムノ地方に入り、プルシ人を制圧しその他に征服した地を自国領土に加えてその地をプルシをドイツ語化してプロイセンとなずけ支配した。これにより、バルト海沿岸にドイツ人の国家が成立し、ポーランドはバルト海への出口をふさがれた。

カジミェシュ大王  ポーランド王1333-70
クラクフ司教スタ二スワフが1257年に聖人に任命され、八つ裂きにされた司教の肉体が奇跡で元通りになったといわれるように分裂したポーランドもやがてひとつになると皆が信じ、レグ二ツァの敗北で後退した国家統一への夢を覚醒し、ようやく14世紀前半、ヴワディスワフ二世ウォキェテクとその子カジミェシュ?大王の時代にポーランドは再び統一を回復する。ポーランドの王のなかで唯一、大王という称号を得て、土と木のみすぼらしいポーランドを石のポーランドに変えたといわれるカジミェシュ?大王は法典を整備し、1364年にクラクフに大学を設立し、またユダヤ人を保護して、産業の振興と都市の整備に力を入れ国力の強化に努めた。しかしカジミェシュには後継者がなく、ピャスト朝は断絶した。

ヤギェウォ王朝 1386-1572年

エルジビェ-タ(カジミェシュ大王・ポーランド王1333-70の姉) X カロル・ロベルト・ハンガリー王〜ルドヴィク?ヴェンゲルスキ・ハンガリー王1342・ポーランド王1370−82〜ヤドヴィガ・ポーランド王+ヴワディスワフ?ヤギェウォ・リトアニア大公1377・洗礼1386・ポーランド王1386−1434

カジミェシュ?大王には後継者がなく、カジミェシュ?大王の死後ピャスト王朝は断絶した。国王評議会はハンガリー王・カロル・ロベルトに嫁いでいた大王の姉・エルジビェ-タの息子でハンガリー王のルドヴィクをポーランド王に任命するが、ルドヴィクは母をポーランド総督に任命して本国に戻ってしまった。ルドヴィクが死去するとその娘、十一歳のヤドヴィガが国王評議会によりポーランド王に選出され、ドイツ騎士団に対抗するために、結婚相手としてリトアニア公国のヤギェウォが選ばれ、これを起点に空前絶後のポーランド・リトアニアによる同君連合大王国が形成され、ヤギェウォ王朝が始まった。唯一ヨーロッパで原始宗教を維持していたリトアニアだったが、連合王国形成後キリスト教をポーランドから導入し、1386年にヤギェウォは洗礼を受けヴワディスワフの洗礼名を得た。リトアニアは現在は小国に過ぎないがケディミナス大公の時代に(ヤギェウォの祖父)東方のロシア諸侯国を併合し、現在のウクライナとベラルーシも支配していた。

このポーランド・リトアニア連合大王国は、1410年欧州最大規模の戦い・グルンドヴァルト(タンネンベルク)の戦いで、ドイツ騎士団を撃破し、騎士団国家は衰退し、1525年には世俗化してポーランド国王に臣従するプロイセン公国となった。こうして、1466年、ポーランドはバルト海への出口を回復し、西ヨーロッパへ大量の穀物や木材を輸出することが可能となり、穀物輸出ブームで経済的に豊かになったポーランド・リトアニア連合大王国は領土を膨張し続け、領土は東はドニエプル川のはるか彼方まで、北はバルト海、南は黒海並びにアドリア海に至り、バルト海から黒海にまたがる一大複合民族国家となった。また、この時代には、天文学者コペルニクスが地動説(『天体の回転について』:1543年)を唱え、ポーランド文学の生みの親詩人ヤン・コハノフスキが活躍し、ポーランド語の文学作品が書かれるようになった。このように、ヤギェウォ王朝時代は、ポーランドの歴史を通して最も輝かしい時代で、「黄金の世紀」と呼ばれている。

第一共和制(16世紀からポーランド分割までのシュラフタ民主制)

前述のように、穀物輸出ブームでシュラフタとよばれている中小貴族が経済的に豊かになり、徐々に多くの特権を得て、1572年、ヤギェウォ朝が断絶した時には、議会での代表権も独占し、支配の実権を握り、選挙で国王を選ぶようになった(「シュラフタ民主制」と呼ばれて入る)。一方、こうした穀物輸出ブームのなかで、ポーランドは他文化に対し欧州で最も寛容な国となり、宗教的、政治的理由で他国にて迫害を受けた人々が避難してくるようになり、カトリック教徒だけでなく、ギリシア正教徒、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒といった異なる文化を持つ人々が平和に共存し、クラクフを中心にルネサンス文化が開花した。

ヘンリク・ヴァレジィ1551−89(フランス王アンリ?の子・フランスへの夜逃げ)
フランス出身の国王は1574年にクラクフで戴冠式を挙げたがわずか4ヶ月後兄シャルル9世の訃報を聞き、夜中密かにポーランドを去りフランス王に就いた。

ヴァ-ザ家
ヴワディスワフ?ヤギェウォ・リトアニア大公1377・洗礼1386・ポーランド王1386−1434
〜 ジグムント?老王〜
ジグムント?アウグスト・リトアニア大公1522・ポーランド王 戴冠1529統治1548-72
カタジナXステファン?ヴァ-ザ・スウェーデン王
〜ジグムント?ヴァ-ザ・ポーランド王1587−1632・スウェーデン王1592-99
ジグムント?老王・ポーランド王・リトアニア大公1506−48
1518年イタリアから嫁いだ王妃ボナ・スフォルツァ

ルブリン合同
ヤギェウォ朝の最後の君主・ジグムント?アウグストには子供がなく、ヤギェウォ家の断絶によって両国の絆が弱まるのを懸念したポーランドとリトアニアの貴族の間で更なる両国の関係の強化はかるため1569年ルブリンで会議を開き、今後とも両国は共通の選挙で君主を選び、統一した外交政策をとることを決定した。

ジグムント・ヴァ-ザ (スウェーデン王ヨハン?とカタジナ・ヤギェロンカの子 ポーランド王15867-1632・スウェーデン王1592-99)

ポーランド・リトアニア連合の領土は膨張し続け、バルト海から黒海にまたがる一大複合民族国家となった。国土が東に広がったため1596年に首都はワルシャワに移り、17世紀初頭には一時モスクワまで進出した。しかし、17世紀半ばになると穀物ブームは去り、一部の大貴族の手に富と権力は集中し、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデンとの戦争によって国土は荒廃し(「大洪水」と呼ばれる)、議会は「リベルム・ヴェト」(全会一致制)の乱用によって機能しなくなった。
1642年、イエズス会宣教師ヴォイチェフ・メンチンスキがフィリピンから来日。日本を訪れたこの最初のポーランド人は逆さ吊りにされて果てた。

1632年にジグムント?ヴァ-ザがなくなるとポーランドは様々な戦火に巻き込まれ苦境にたさされた、それを好機と見て1655年さらにスウェーデン軍が侵攻してきた。国土の大半は敵軍の手に落ちたが占領下で苦しめられた民衆はパルチザン的な戦いで抵抗し続けた、チェンストホヴァのヤスナ・グラ修道院では黒い聖母が町を守りきりついにスウェーデンは占領地から撤退した。

ヤン・ソビエスキ1629−96
オスマン帝国軍に包囲され陥落直前のウィ-ンを救うため1683年3万の兵を引き連れ馳せつけウィ-ンを救出してキリスト教世界の称賛を受けた。

ザクセン朝時代
アウグスト?ヴェッティン強王1670−1733(ザクセン選帝公ヨハン・ゲオルグ?の子)
ザクセン出身の王、ロシアと手を組みスウェーデンとの北方戦争を開始した。この戦争の間にポーランドは戦場となり国土を荒らされ、国政はロシア、フランス、ザクセンに干渉されることになった。

アウグスト?ヴェッティン1696-1763(アウグスト?の子)

スタ二フワフ・アウグスト・ポニャトフスキ1732−98
17世紀に入って、シュラフタが没落して大貴族による寡頭支配が成立、この大貴族たちが対立・抗争を繰り返して国内は無政府状態に陥った。この無政府状態を利用して、周辺の大国、東からは力をつけてきたロシアが、西からはプロイセンが台頭し、南からはハプスブルク帝国がポーランドの内政に干渉し始めた。1733年にはポーランド国王の選出をめぐってフランスとロシア、オーストリアの間に戦争が起こった。(ポーランド継承戦争)ポーランド国会は外国の干渉のためにほとんど機能を停止した状態だったが、危機感を抱いた人々はようやくこうした衰退の極地から抜け出そうと1740年、聖職者スタニスワフ・コナルスキはワルシャワに貴族学校を設立し教育改革を試み近代人文学を教えた。1764年には改革意欲に燃えるスタ二フワフ・アウグスト・ポニャトフスキが国王に選出された。しかし、ロシアのエカテリーナ?、プロイセンのフリードリッヒ?、オーストリアのマリア=テレジアによって第1次分割が行われた。第1次分割後もポーランドは改革を進め、1773年、「ヨーロッパ最初の文部省」と呼ばれる「国民教育委員会」を設立し教育制度を整え、1791年5月3日、1788年から開かれた「四年国会」がフランス革命の影響を受けて近代的な「5月3日憲法」を制定し、自由拒否権と選挙王政は廃止され、貴族が独占していた国会にも一般市民の代表の参加が認められた。スタ二フワフ・アウグスト・ポニャトフスキ国王もこれを承認した。しかし、ポーランドの民主主義化を望まないロシア、プロイセンは軍事介入し第二次分割を決行した。オーストリアはフランス革命の対応に追われこの動きを牽制できなかった。これに対して1774年3月24日、アメリカの独立戦争でも活躍した軍人タデウシュ・コシュチューシコを指導者としてクラクフで蜂起がおきたがしかし、ロシア・プロイセン・オーストリアの三国は改革によってポーランドが国力を回復することを望まず第3次分割が行われ、ついにポーランド王国はヨーロッパの地図から姿を消した。

ユゼフ・ポニャトフスキ
祖国を失ったポーランド人は祖国復興のためにフランスのナポレオンに期待を寄せた。ドンブロフスキ将軍率いるポーランド軍団は祖国再建の夢を託してイタリアでナポレオン軍に加わって戦った。この時歌われた「ドンブロフスキのマズルカ」が、今日のポーランド国歌の元になっている。しかし、大陸制覇の途上で創られた「ワルシャワ公国」も、ナポレオンの敗北と運命を共にした。1815年のウィーン会議において、ロシア領ポーランドにポーランド王国が作られ、ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねることになった。

(1830年「11月蜂起」、1846年「クラクフ蜂起」、1848年「諸国民の春」、1863年「1月蜂起」)
地下活動と蜂起の伝統が形成された。国家が存在しない間、民族の存続を支えていたものは、言語(ポーランド語)、宗教(カトリック教会)、芸術(例えばミツキェーヴィチの詩、シェンキェヴィチの小説、ショパンの音楽、マテイコの絵画)などの「文化」であった。分割列強、とくにロシアとプロイセンは検閲を強化し、ポーランド語の使用を制限するなどして同化政策を進めようとしたが、ついにこの「文化」を滅ぼすことはできなかった。知識人を中心としたこの闘いは、社会活動や農民教育、文学運動などで大きな成果をあげた。ノーベル賞作家シェンキェヴィチの小説『クォヴァディス』(1895?96年)はその地道な時代の代表作である。しかし、武力闘争が相次いで敗北に終わると、19世紀後半にはその反動として蜂起よりもまず経済的・社会的土台を着実に築くことを重視する「ポジティヴィズム」と呼ばれる考え方も現れる。自分の国を失った結果として、また政治的な弾圧を逃れる必要から、多くのポーランド人が西ヨーロッパ諸国やアメリカに移住した。