ポーランドのノーベル賞受賞者

◆ノーベル物理学賞・化学賞◆ マリア・スクウォドフスカ・キュリー夫人 (Maria Skłodowska – Curie)、(1867年11月7日生・1934年7月4日没) 物理学者・化学者。政治運動に参加し故国を越え、フランスに亡命。物理学者ベクレルの影響を受け、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証。原子物理学の最初の基礎を作るとともに、文字通り今世紀の原子力・核の時代を開く。夫ピエール・キュリー、ベクレルとともに、第一回物理学賞(1903)。後、金属(単体)ラジウムの単離に成功し、ノーベル化学賞も受賞(1911)。 ◆ノーベル文学賞◆ ヘンリク・シェンキエヴィッチ (Henryk Sienkiewicz)、(1846年5月5日生・1916年11月15日没)作家。 1866〜1869年、法学を学ぶと共に、中央大学史学部の学生でもあった。 1872〜1887年、報道記者・特別欄担当者として働き、1882〜1887年、「単語」(”Słowo”)の編集者。70年代から海外旅行を始め、北米やイタリアやスペインなどに行った。第一次世界大戦が派生時にはスイスでポーランド人犠牲者委員会を設立した。独立を失ったポーランドでの外国政府の弾圧政策に対抗し、独立回復を求めて戦いを続けた。失われた祖国への思いを込めた作品を作っていたが、彼の作品には社会問題も取り上げられている(「ヤンコバンドマン」(”Janko Muzykant”:1880)。しかし世間の注目を浴びたのはポーランドの激しい歴史を語る3部作、「火と剣と」(”Ogniem i mieczem”:1884)、「大洪水」(”Potop”:1886)「ヴォウォディヨフスキ氏」(”Pan Wołodyjowski”:1888)。世界的に知られているのは「クオ・ヴァディス」(Quo Vadis)である。1905年にノーベル文学賞を受賞した。 ヴウァディスヴァフ・レイモント(Władysław Reymont)、(1867年5月7日生・1925年12月5日)、作家。オルガン奏者の息子。幼い頃、仕立屋の弟子。役者としても活躍し、1893年、記者の仕事に就いた。1895〜1897年、旅の時期を過ごし、電車の事故に遭ったが、奇跡的に生き延びた。第一次世界大戦の際、政府に抵抗し、独立回復するのに戦い続けた。大きな反響を呼んだのは「約束の地」(”Ziemia obiecana”:1899)、そしてノーベル賞の授賞理由になった「農民」(”Chłopi”: 1904〜1909)である。ノーベル賞を授賞したのは1924年のこと。 チェスワフ・ミウォシュ(Czesław Miłosz)(1911年6月30日生・2004年8月24日) ポーランドの詩人、随筆家、訳者。第二次大戦中にAK「国内軍」に加わり地下活動を行なっていた。戦後外交官としてワシントンとパリ(46〜50年)在住。フランスに亡命し(51年)、その後アメリカへ渡り(60年)、以後カリフォルニア大学教授であった。90年代にポーランドに戻り、クラクフに在住した。代表作は「まひるの明かり」(”Światło dzienne”:1953)、「囚われの魂」(”Zniewolony umysł:1953)、「名前の無い町」(”Miasto bez imienia”:1969)、「故郷のヨーロッパ」(”Rodzinna Europa”)、「ウルロの地」(”Ziemia Urlo:1977)、「これ」(”To”:2000)。1980年ノーベル文学賞受賞。 > ヴェスワヴァ・シンボルスカ (Wiesława Szymborska)、(1923年7月2日生・2012年2月1日没)、ブニン町(ポズナン周辺) 生まれ。1945〜48年、ヤギェウウォ大学でポーランド文学と社会学を学び、1953年から「Życie Literackie」の編集グループの一員として活躍。代表作は「自問」(„Pytania zadawane sobie”: 1954)、「塩」(„Sol”: 1962)、「万一」(”Wszelki wypadek”: 1972)、「大きな数字」(”Wielka liczba”: 1976)、「終わりと始まり」(”Koniec i początek”: 1993)等。 人間の存在・歴史との関係をモチーフにしている詩人。よくアイロニーとパラドクスを手段として使っている。1996年にノーベル文学賞受賞。授賞理由は「人間の本質が持つ様々な断面に、歴史的、女性的視点からアイロニーを込めて照らし出した詩」であった。 オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk) (1962年11月29日生-) ポーランドの作家・詩人。1993年に作家デビュー。2008年にポーランド文学最高峰のニケ賞を受賞。『逃亡派(Bieguni)』で2018年マン・ブッカー国際賞受賞。2019年に2018年度のノーベル文学賞を受賞した。代表作は「逃亡派(原題:Bieguni)」「昼の家、夜の家(原題:Dom dzienny, dom nocny)」「プラヴィェクとそのほかの時代(原題:Prawiek i inne czasy)」など。 ◆ノーベル平和賞◆ レフ・ワレサ(Lech Wałęsa)、 (1943年生‐)。ポーランドの労働組合運動家、政治家、ポーランド語ではレフ・ヴァウェンサと読む。元ポーランド大統領。工業学校を卒業した後、グダニクスの造船所にて電気工として就職した。 当時、共産党は主権を握っていた。共産党議長であったギエレクは経済政策に失敗し、それを機に各地でストが発生し、そのストを指導した。1970年、1980年と造船所ストライキを決行し、全国的な自主管理労働<連帯>を結成。初代議長として政府の弾圧政策に対抗し、労働者の自由を求めて戦い を続けた。何度か政府によってその身柄を拘束されたワレサであったが、1983年にはノーベル平和賞を受賞し、1989年には共産政権を打倒し、1990年に憲法を改正させた。その年の自由選挙によって大統領に就任した。1995年に大統領選で敗れ、失脚。 関連記事 / Related posts: ヨハネ・パウロ2世 (Jan Paweł II) クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski) ルドヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof) レフ・ヴァウェンサ (Lech Wałęsa) オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk)

オルガ・トカルチュク氏がノーベル文学賞を受賞

12月10日、スウェーデンのストックホルムで2019年ノーベル賞授賞式が行われ、ポーランドの作家オルガ・トカルチュク(Olga Tokarczuk)氏が2018年文学賞、オーストリアの作家ピーター・ハントケ氏が2019文学賞を授与されました。昨年は性的暴行事件にからむスキャンダルで文学賞の発表は見送られていたため、今年の発表となりました。 トカルチュク氏はポーランド・スレフフ生まれの57歳。ワルシャワ大学心理学科を卒業し、1993年にデビュー。2008年にポーランドの文学賞であるニケ賞を受賞。2018年に「逃亡派」で国際ブッカー賞を受賞するなど、現代ポーランドを代表する作家として知られています。 ポーランド人のノーベル賞受賞者はこれまでに7人、ポーランド人女性としては物理学者・化学者のマリア・スクウォドフスカ=キュリー(キュリー夫人)、詩人ヴィエスワヴァ・シンボルスカに続き3人目のノーベル賞受賞者となります。 これまでに多くの作品を発表していますが、邦訳では代表作「逃亡派(原題:Bieguni)」「昼の家、夜の家(原題:Dom dzienny, dom nocny)」「プラヴィェクとそのほかの時代(原題:Prawiek i inne czasy)」が刊行されています。     (写真はwyborcza.plのものです) 関連記事 / Related posts: 関連記事がありません / No related posts.

ロマン・ポランスキ (Roman Polański)

ロマン・ポランスキは「戦場のピアニスト」や「ローズマリーの赤ちゃん」などの作品で有名なポーランドの映画監督です。 ポランスキーは1933年8月11日、フランスのパリでユダヤ系ポーランド人の家庭に生まれました。出生時の名前はRajmund Roman Liebling (ライムンド・ロマン・リーブリング)。彼が3歳になると一家はポーランドのクラクフへ引っ越します。1939年になるとユダヤ系であったポランスキ一家は、ドイツ軍が作ったゲットーに強制移住させられます。母親はアウシュヴィッツ強制収容所に連行され、虐殺されました。ポランスキは父親の手助けで逃げ延び、クラクフ郊外のカトリック教徒の家に隠れましたが、まもなくクラクフに戻り、路上で生活を始めます。 彼の家族はほとんど虐殺されていましたが戦後、生き残っていた父親と再会。13歳頃からアートに興味を持ち始め、映画館に通い始めます。その後クラクフの劇団に入団、演技力が高く評価されます。1953年に映画デビュー。その後アンジェ・ワイダ監督作品「世代(原題:Pokolenie)」に出演。 1954年にウッジの国立映画大学に入学。学生時代に撮った作品はどれも高評価されており、1958年の作品「タンスと二人の男(原題:Dwaj ludzie z szafą)」は5つの国際映画祭で入賞しています。1959年に女優のバルバラ・クフィアトコフスカと結婚(1962年に離婚)。1962年に発表されたデビュー長編映画「水の中のナイフ(原題:Nóź w wodzie)」は国内の賞賛を浴びたばかりでなく、ヴェネチア国際映画祭の批評家賞を受賞、またアカデミー外国語映画賞にもノミネートされました。その後フランスに移住。パリで知り合った脚本家ジェラルド・ブラックとコンビを組み、「反撥(原題:Repulsion)」、「袋小路(原題:Cul-de-sac)」を撮影、ベルリン映画祭で銀熊・金熊賞を受賞しました。1966年に「吸血鬼」の製作に入り、シャロン・テートと出会い、結婚してアメリカに渡ります。1968年に製作された初のハリウッド作品「ローズマリーの赤ちゃん(原題:Rosemary’s Baby)」で世界中に名前が知られることになりました。 しかし幸せな新婚生活も長くは続かず、1969年8月、妊娠8ヶ月だったシャロン・テートはビバリーヒルズの自宅でチャールズ・マンソン率いるカルト教団に惨殺されます。このときポランスキーは撮影のため家を留守にしていました。 1974年、ジャック・ニコルソンが主役の「チャイナタウン(原題:Chinatown)」を発表、この作品はアカデミー賞11部門にノミネート(1部門受賞)、またゴールデングローブ賞も7部門ノミネート(4部門受賞)し、一気に観客の層を広げることになりました。しかし1977年、当時13歳の子役の少女に性的行為をした容疑で逮捕、有罪判決を受けますが保釈中にパリへ逃亡。それ以来アメリカには一度も入国していません。 2002年に監督した実在のピアニストであるヴワディスワフ・シュピルマンの体験がもとになっている作品「戦場のピアニスト(原題:The Pianist)」は、カンヌ映画祭最高賞であるパルム・ドール賞を受賞。アカデミー賞では7部門にノミネートされ、3部門で受賞しましたが、上記の問題があるために授賞式には出席しませんでした。2019年9月には最新作“ジャキューズ”が第76回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を、2020年3月の仏セザール賞で最優秀監督賞を受賞しています。 関連記事 / Related posts: 2018カンヌ映画祭:ポーランド作品が16年ぶりにコンペ部門に! チャイナ・タウン(China Town) アンジェイ・ワイダ(ヴァイダ) (Andrzej Wajda) クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)

ニコラウス・コペルニクス (Mikołaj Kopernik)

地動説で世界的に有名なニコラウス・コペルニクスはポーランド人。ポーランド語ではミコワイ・コペルニク(Mikołaj Kopernik)といいます。1473年にポーランド=リトアニア同君連合王国の都市であったトルンという町で、裕福な商人の息子として生まれました。 最初に入った聖ヨハネ教会付属の学校でラテン語と数学そして天文学に触れたコペルニクスは、その後ヴロツワフの教会付属学校を経て1491年クラクフアカデミー(現在のクラクフ・ヤギウェウォ大学)に入学、1495年に卒業します。彼がクラクフで学んだ時期はちょうど天文学・数学の黄金期でした。大学を卒業したその年にはヴァルミア地区の律修司祭になりました。 1496年になると叔父の勧めもあり、イタリアのボローニャで法律を学び始めました。そこで出会った天文学者のドミニカ・マリア・ノヴァッラの影響により、プトレマイオスが提唱した天動説に対する地動説の研究を始め、天体の逆行運動を地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていきました。 しかし当時は「地球のほうが動いている」という主張は聖書の教えに反するものであり、迫害の対象となってしまうために彼の執筆した「天体の回転について」は彼が死去するまで出版されませんでした。 死後はフロムボルグの大聖堂に埋葬されたといわれていましたが、骨は確認されていませんでした。2004年から調査チームが発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見しました。この遺骨はスウェーデンのウプサラ大学との共同調査によりコペルニクスのものと判断されました。 才能豊かだったコペルニクスは天文学者・司祭だけではなく、政治の世界では県知事や行政士官を勤め、また弁護士、医者、占星術師でもありました。 コペルニクスが生まれたといわれている家はトルンの旧市街に残っており、現在はコペルニクス博物館になっています。2018年に改装されてとても近代的になったので、一度足を運んでみてはいかがでしょうか? コペルニクス博物館 (Dom Mikołaja Kopernika) ul. Kopernika 15/17,  Toruń tel/ (56) 660 56 13  e-mail: kopernik@muzeum.torun.pl http://www.muzeum.torun.pl/  (英語あり) 関連記事 / Related posts: 「ポーランドのユダヤ人歴史博物館」がヨーロピアン・ミュージアム・オブ・ザ・イヤー2016を受賞! ワルシャワ・ネオンミュージアム (Muzeum Neonów)

ルドヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof)

ルドヴィク・ワザジュ・ザメンホフ(Ludwik Łazarz Zamenhof)はユダヤ系ポーランド人の眼科医であり言語学者で、人工言語エスペラントの創始者です。彼の名前はルドヴィク・レイゼル・ザメンホフ(Ludwik Lejzer Zamenhof)とも、またはエスペラント語でルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフ(Ludoviko Lazaro Zamenhof)と表記することもあります。 ザメンホフは1859年12月15日、帝政ロシアの支配下にあったポーランド東部のビアウィストックという街で生まれました。10人兄弟のひとりとして育った彼の家ではヘブライ語・ロシア語・ポーランド語が日常的に話されており、また、当時のビアウィストックにはポーランド人・ユダヤ人・ロシア人そしてドイツ人が住んでいたことで、ザメンホフは幼い頃から人々が理解しあえないのは言葉の壁があるためではないかとの考えを抱くようになりました。 彼はワルシャワの中学校に通いながら新しい言語を作る試みを始め、1878年には「リングウェ・ウニヴェルサラ」の原版が完成、その後数年にわたって 医大を卒業したザメンホフはワルシャワで眼科医として働き始めますが、新言語創設への情熱は薄れることはなく、1887年7月26日、ドクトロ・エスペラントの名で”Język międzynarodowy. Przedmowa i podręcznik kompletny(国際語。序文と完全な教科書)”という本をロシア語で出版しました。本を出版するためには2年の歳月を要しましたが、最終的には後に妻となるクララ・シルベルニクの父親から経済的な援助を受けられたことで出版にこぎつけることが出来たのでした。同年にはこの教科書はポーランド語・フランス語・ドイツ語そして英語に翻訳されています。 ザメンホフにとってエスペラント語は単なるコミュニケーションの道具としての言葉ではなく、異なる文化を持つ人々が平和に共存していけるように作られたものでもありました。 ザメンホフは1917年4月14日ワルシャワで亡くなりました。遺体はワルシャワのオコポヴァ通り沿いにあるユダヤ人墓地に葬られています。 (写真はザメンホフが住んでいた家とザメンホフの銅像)     関連記事 / Related posts: ポーランドのノーベル賞受賞者 ヨハネ・パウロ2世 (Jan Paweł II) クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski) レフ・ヴァウェンサ (Lech Wałęsa) オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk)

マキシミリアン・コルベ神父 (św. Maksymilian Kolbe)

マキシミリアン・マリア・コルベ(Maksymilian Maria Kolbe)神父(出生名ライムンド・コルベ Rajmund Kolbe)は1894年にポーランドのズドゥンスカ・ヴォラで生まれました。 聖母マリア信仰の強い家庭で育ち、その後コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会、ルヴフ(現在はウクライナのリヴィフ)にあるコンヴェンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学。1911年の初請願の際にマキシミリアンの名前を与えられました。その後ローマに留学、数学・物理学・哲学そして神学を学びました。 1917年6人の仲間とともに「無原罪の聖母の騎士信心会」を設立。クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤めましたが、結核のためその後ザコパネで療養生活をしていました。 1927年にはワルシャワから40キロほどのところにあるテレシンの町にニエポカラヌフ修道院を創立。「無原罪の聖母の騎士」という小冊子を発行して宣教に力を入れました。 当初は中国での布教活動を考えていたコルベ神父ですが、政情の不安定さを心配した友人の提案で上海を経て日本に向かうことになります。1930年4月長崎に上陸したコルベ神父は、翌月には大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を開始、「無原罪の聖母の騎士」日本語版を一万部発行しました。翌年には聖母の騎士修道院を設立。、聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。また、大浦神学校では教授として生徒達に哲学を教えていました。 執筆中のコルベ神父 1936年、ニエポカラヌフ修道院の院長に選ばれたためポーランドに帰国。ラジオや出版物を通して更なる布教活動に専念しました。 第2次世界大戦が始まると修道院はドイツ軍によって荒らされ、修道士達も逮捕されました。一度は釈放されたもののまた逮捕されたコルベ神父はまずワルシャワのパヴィアック収容所へ、その後アウシュヴィッツ強制収容所へ送られました。 1941年7月、収容所から脱走者が出ました。脱走者が見つからないと、連帯責任として無作為に選ばれる10人が死刑に処せられることになっていました。死刑囚を選別している最中、不幸にも選出されてしまったフランチシェック・ガヨヴニチェク(Franciszek Gajowniczek)というポーランド人軍曹が突然「私には妻子がいる」といいながら泣き崩れました。その時そこにいたコルベ神父は静かに列の前に出て、「私は妻子あるこの人の身代わりになりたい」と所長に申し出ました。今までそんな言葉を聞いたこともなかった所長は驚いたものの、それを許可し、コルベ神父は9人の囚人とともに餓死牢へ連行されていきました。 この餓死牢は「死の地下室」と呼ばれ、パンも水も与えられず、ほとんどの囚人は叫び、呻きながら半狂乱になって死んでいきました。しかしコルベ神父が餓死牢に入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえてきました。他の囚人たちもみな一緒に歌っていました。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィエツ(Bruno Borgowiec)氏は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言しています。 牢に入れられてから2週間後の8月14日、当局はコルベ神父を含めたまだ生き残っていた4人に毒物を注射して殺害しました。注射をされるとき、コルベ神父は祈りながら自ら進んで手を差し出したそうです。通訳のボルゴヴィエツ氏はいたたまれなくなり、口実をもうけてその場から逃げ出しました。少し時間が経ってからコルベ神父のもとへ行ってみると、「神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていた。その顔は穏やかで、美しく輝いていた」そうです。 コルベ神父は1971年10月10日にパウロ6世によって列福され、1982年10月10日にポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。列福式および列聖式の場にはガヨヴニチェック氏の姿もありました。ガヨヴニチェック氏はその後ザクセンハウゼン収容所に送られたものの奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、亡くなるまでずっとコルベ神父に関する講演を世界各地で続けました。1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベ神父の像が飾られました。 関連記事 / Related posts: 関連記事がありません / No related posts.

クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)

クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)は「デカローグ」や3部作「トリコロール」で有名な、ポーランドの映画監督です。 クシシュトフ・キエシロフスキは1941年6月27日ワルシャワで生まれました。義務教育を終えたあとは消防学校に入学しましたが、わずか半年で退学。1957年には家族のすすめで、彼の叔父が校長を務めていたワルシャワの演劇学校に入学。卒業後は演劇監督になることを夢見るも断念、ウッジの国立演劇大学へ進学しますが、入学試験には2回落第し、3回目でやっと合格したのだそうです。大学在学中の1967年にマリア・カウティッロ夫人と結婚。1972年には娘・マルタが誕生しました。 1976年に初めての長編劇映画『傷跡』でデビュー。1979年に製作した長編ニ作目の『アマチュア』はモスクワ国際映画祭で金賞を受賞しました。1988年から1989年にかけて、聖書の十戒をモチーフとした10編からなるTVシリーズ『デカローグ』を製作。この作品はヴェネツィア国際映画祭で上映され国際映画批評家連盟賞を受賞。後者は第41回カンヌ国際映画祭で審査員賞と国際映画批評家連盟賞を受賞しました。 1991年の『ふたりのベロニカ』はポーランドとフランスを舞台に容姿・名前が全く同じ二人の女性・ベロニカ(イレーヌ・ジャコブの一人二役)の運命を描いた作品で、第44回カンヌ国際映画祭で上映され、二度目となる国際映画批評家連盟賞を受賞しました。1993年からはフランス革命のキーワードであった「自由・平等・博愛」をテーマとした『トリコロール』三部作を製作。ジュリエット・ビノシュ演じる自動車事故で夫と娘を亡くした女性の絶望を描いた『トリコロール/青の愛』は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を、そしてフランスのアカデミー賞にあたるシーザー賞を3部門で受賞。1994年に発表した二作目、自分を捨てたフランス人の妻に復讐を企てるポーランド人理髪師の姿を描いた『トリコロール/白の愛』は、第44回ベルリン国際映画祭で監督賞を受賞。同年に製作された、人々の孤独をテーマにした『トリコロール/赤の愛』は第47回カンヌ国際映画祭で上映され、パルム・ドール賞受賞が期待されましたが、結局無冠に終わりました(ちなみにその時パルム・ドール賞を受賞したのは「パルプ・フィクション」)。 キエシロフスキは映画監督であっただけでなく、1971年からはポーランド映画人協会のメンバーでもあり、1978-81年には副会長を務めていました。またカトヴィツェやウッジ、西ベルリン、ヘルシンキ、スイスの映画学校で講義をするなどしていました。1977年には演劇監督として、自身の作品であるドキュメント映画をもとにした“履歴(Życzorys)”でデビュー。そのほかにもポーランド国営放送TVPで放送された“テレビ劇場(Teatr Telewizji)”でも3つの作品を監督しました。 1996年3月13日、心臓病で死去。遺体はワルシャワのポヴォンスキ墓地に埋葬されています。 関連記事 / Related posts: ニキフォル / Mój Nikifor(私の見たポーランド映画) 2017年ベルリン国際映画祭:ポーランド映画”Pokot”が銀熊賞を受賞! クシシュトフ・ピヨンテクがACミランへ移籍へ サンダンス映画祭でクリスティーナ・ヤンダが演技賞を受賞! ワイダ監督、アカデミー名誉賞を受賞

マリア・スクウォドフスカ・キュリー(Maria Skłodowska – Curie)

(1867年11月7日生・1934年7月4日没) ポーランドの有名な物理学者・化学者です。政治運動に参加し故国を越え、フランスに亡命しました。 物理学者ベクレルの影響を受け、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証しました。 原子物理学の最初の基礎を作るとともに、文字通り今世紀の原子力・核の時代を開きます。夫ピエール・キュリー、ベクレルとともに、第一回物理学賞(1903)を受けました。後、金属(単体)ラジウムの単離に成功し、ノーベル化学賞も1911年に受賞しました。 2016年の10月にポーランド・ドイツ・フランス・ベルギーの協力で「マリア・スクウォドフスカ・キュリー夫人」の映画の封切りがありました。主人公の役がポーランドの俳優者、Karolina Gruszkaです。 写真はfilmweb.pl, poloniumfoundation.comのものです。 関連記事 / Related posts: 関連記事がありません / No related posts.

ヨハネ・パウロ2世 (Jan Paweł II)

ヨハネ・パウロ2世(ポーランド語ではヤン・パヴェウ・ドゥルギィ – Jan Paweł II)はポーランド出身の第264代ローマ教皇です。(在位:1978年10月16日‐2005年4月2日) 史上初のスラヴ人教皇であるヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ‐ Karol Józef Wojtyła)は、1920年5月18日、ポーランドのヴァドヴィツェ(Wadowice)で父カロル・母エミリアの次男として生まれました。8歳のとき母を、11歳のとき兄をなくし、父の手で育てられました。その後クラクフのヤギウェオ大学に入学しポーランド文学を専攻。1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって大学が閉鎖、さらには翌年父が他界。生活のために肉体労働に従事しながら、勉学と演劇活動に打ち込みます。この間に聖職者への志が芽生えましたが、公式には神学校の運営が禁止されていたために非合法の地下新学校へ入学。1946年11月11日に司祭に叙階されました。同年、ローマのアンジェリクム神学大学に送られ、1948年に神学博士号を取得。その後帰国し、クラクフの教区司祭として勤めました。その後、ルブリン・カトリック大学やクラクフ・カトヴィツェなどの神学校で倫理神学を教え、1958年にはクラクフ教区の補佐司教に、1964年にクラクフ教区の大司教に、そして1967年には枢機卿に新任されました。 1978年、当時の教皇パウロ6世の死去に伴い新教皇に選出するためのコンクラーヴェに参加。選出されたのは当時65歳のヨハネ・パウロ1世でしたが、在位33日にして教皇が死去してしまったため、同年10月に再びコンクラーヴェが行われた結果、第264代目の教皇として選出され、ヨハネ・パウロ2世と名乗りました。 教皇登位後は、最初の訪問国であるメキシコを初めとして、2003年の最後の訪問国であるスロバキアまで100カ国以上を訪問し、「空飛ぶ教皇」と呼ばれました。民族や宗教・国を越えた対話を目指し、各国のリーダーや政治家、宗教関係者との会見も積極的に行いました。また、すべての命と人権の擁護、戦争や暴力に反対するなど、平和への活動にも取り組みました。国民の90%以上がカトリック信者だった社会主義時代のポーランドでは、教皇の存在が国民の精神的な支えとなり、後の民主化に大きな影響を与えたと言われています。 2005年2月からインフルエンザによる喉頭炎で入退院を繰り返し、4月2日に逝去。教皇逝去の知らせを受け、世界中から500万人がバチカンに集まったといわれています。 ヨハネ・パウロ2世は2011年5月11日に列福、2014年4月27日に列聖されました。 関連記事 / Related posts: ヨハネ・パウロ2世逝去 ヨハネ・パウロ2世列聖 ポーランドのノーベル賞受賞者 クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski) ルドヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof)

アンジェイ・ワイダ(ヴァイダ) (Andrzej Wajda)

アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda – ポーランド語ではアンジェイ・ヴァイダ)はポーランドを代表する映画監督です。 ワイダは1926年3月6日、ポーランド北東部の国境に近いスヴァウキという街で軍人の息子として生まれました。第2次世界大戦が始まると父はポーランドを守るため戦いに赴きましたが、カティンの森事件で虐殺されました。 1946年よりクラクフ美術大学で絵画の勉強を始め、シュールレアリズムや抽象絵画、素朴派の影響を強く受けたグループ“若い美術家たち”に所属しますが、1949年に退学し、ウッジの映画学校で映画監督になるための勉強を始めます。1953年にウッジ映画大学を卒業、映画監督としての道を歩み始めます。 クラクフにいた頃、織物会館で開かれていた日本美術展を訪れたワイダ氏は「今でも何が展示されていたかありありと覚えているほど(1999年製作の自伝ドキュメント“Kredyt i debet. Andziej Wajda o sobie”より)」の感銘を受けます。この時の感動が後にクラクフの日本美術・技術センターをオープンさせる大きなきっかけとなったそうです。 1950年代初頭はまだ学生として映画を撮っていましたが、1955年に「世代(原題:Pokolenie)」でデビュー。これは第2次世界大戦中に地下活動をしながらドイツ軍に立ち向かう若いポーランドの兵士達の姿を描いたもので、当時の若い実力派俳優が多数出演しています(のちに映画監督として有名になるロマン・ポランスキも出演)。この作品は国外で高い評価を受けましたが、国内では「社会主義の姿を正しく描いていない」として非難を浴びました。 ワイダの名を一躍国際的に有名にしたのは1956年に監督した「地下水道(原題:Kanał)」です。ワルシャワ蜂起軍の悲劇的な末路を描いたこの作品は同年のカンヌ映画祭で特別審査員賞を受賞。この作品はポーランドの映画史の礎になったものと言われています。1958年にはイエジィ・アンジェイェフスキの同盟小説を元にした「灰とダイアモンド(原題:Popiół i Diament」を発表。反ソ連化したレジスタンスを描いたこの作品は先のふたつの作品とともに“戦争三部作”と呼ばれています。西側で高い評価を受けたこの作品はヴェネチア国際映画祭で批評家連盟賞を受賞、ポーランド映画史に残る名作との評価を受けました。 その後は劇場の舞台監督もしながら映画を撮り続け、1981年、“連帯”運動にインスピレーションを受けた「鉄の男(原題:Człowiek z żelaza)を発表。カンヌ映画祭で最高賞であるパルム・ドール賞を受賞しました。 1981年から89年までは“連帯”の活動に参加しますが、1981年にひかれた戒厳令のため、フランスなど外国での映画製作を余儀なくされます。88年には、それまでの業績を評価されヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞。89年には坂東玉三郎主演の「ナスターシャ」の舞台監督を務めました。これはドストエフスキーの「白痴」を舞台化したもので、1994年には同じくワイダ監督・坂東玉三郎主演で映画化もされています。 1987年には科学や技術・文化に著しく貢献した人々に授与される京都賞の思想・芸術部門を受賞。この時の賞金を元にして、1994年にクラクフに日本美術・技術センター“マンガ”を設立。また1989年から91年まではポーランド共和国上院議員を務めました。2000年、それまでの芸術家としての業績を評価されアカデミー賞を受賞。 2007年、カティンの森虐殺事件をテーマにした「カティンの森(原題:Katyń)を発表。それまでポーランド映画界ではこの事件を扱うことはタブーとされてきましたが、ワイダ監督は「この映画を撮ることで、カティンの森事件で亡くなった父親を記念したかった」のだとか。ソビエト軍によって運命を翻弄される若いポーランド兵士達とその家族の姿を描いたこの作品は高く評価され、アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートもされました。 2013年秋には“連帯”運動指導者であり、社会主義だったポーランドを民主化に導いたレフ・ワレサ元大統領の半生を描いた最新作「ワレサ(原題:Wałęsa. Człowiek z nadziej)」を発表。この映画についてワイダ氏は「レフ・ワレサ氏が行ったことをもう一度人々に思い出して欲しかった。彼は我々の時代の英雄だが、彼を利用して利用して甘い汁を吸おうとしたり、彼が他の人たちに利用されていたというイメージを作り上げようとする政治家達が周りに集まっていたからだ(略)まったく血を流させることなくポーランドの自由を取り戻したヒーローが現れたのは本当に素晴らしいことなのだ」とコメントしています。 2016年には遺作となる「Afterimage (原題:Powidoki)」を発表。この作品は2017年アカデミー外国語映画賞のポーランド代表作品として出品されました。 2017年10月9日ワルシャワで死去。90歳でした。これを受け、ワルシャワの聖ヤツェック教会で追悼ミサが行われ、アレクサンデル・クファシニエフスキ元大統領、ブロニスワフ・コモロフスキ元大統領やロベルト・グリンスキ文化遺産大臣、ハンナ・グロンキエヴィチ=ヴァルツワルシャワ市長などの政治家や、映画界からもクリスティーナ・ヤンダ、ベアタ・ティシュキエヴィチ、ロベルト・ヴィエンツキェヴィチなどが参列しました。葬儀はクラクフのドメニコ会大聖堂で行われ、遺骨はクラクフのサルバトル墓地に埋葬されました。 ワイダ氏に密着したテレビ番組には「祖国を撮り続けた男(2008年放送)」「若き映画人たちへ送る授業(2015年放送)」があります。機会があればぜひご覧ください。  関連記事 / Related posts: ロマン・ポランスキ (Roman Polański) クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)

レフ・ヴァウェンサ (Lech Wałęsa)

レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと読まれるが、ポーランド語での発音はヴァウェンサ)はポーランドの労働運動家、独立自主管理労組「連帯」の初代委員長です。 レフ・ヴァウェンサは1943年9月29日、現在のクヤフスコ・ポモルスキェ県にあるポポヴァという小さな村で7人兄弟の4番目として生まれました。1961年にリプノの職業訓練学校を卒業したのちウォホチンと言う村で電気工として働いた後、1967年グダンスクのレーニン造船所の電気工となりました。1976年以後、ストライキ委員会の一員として活躍。1980年には物価値上げに端を発した造船所の争議を指導。バルト海沿岸工場間ストライキ委員会委員長に就任。グダンスク合意を成功させ、「連帯」の委員長になりました。1981年12月ポーランド政府の戒厳令により、翌年11月まで身柄を拘束されましたた。1983年10月にノーベル平和賞受賞。1988-89年の政府・「連帯」・カトリック教会との「円卓会議」実現に尽力、「連帯」合法化後の1989年ポーランド初の部分的自由選挙で「連帯」を勝利に導きました。非共産主義政権発足後の1990年に大統領に就任、1995年まで任務を務めました。1995年には「レフ・ヴァウェンサ・ファンデーション」を設立、それまでの経験をもとにして、政治活動でのモラルや独立国家の必要性、また「連帯」活動の歴史などを若い世代に伝えていく活動をしています。 プライベートでは1969年に妻のダヌタさんと結婚、8人の子供に恵まれました。また、敬虔なカトリック教徒であることでも知られています。2013年にはポーランド映画界の巨匠であるアンジェイ・ヴァイダ監督が、ヴァウェンサ氏および連帯をテーマにした伝記映画「ワレサ 連帯の男」を発表しています。 関連記事 / Related posts: ポーランドのノーベル賞受賞者 ヨハネ・パウロ2世 (Jan Paweł II) クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski) ルドヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof) オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk)