ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:亡命

 
80年代のポーランドでは外国へ亡命してしまう人たちがいました。昔ベルリンの壁を越えようとして射殺されたり、地雷を踏んで命を落としたした人たちがいるんですから、亡命するということは本当に命がけだったんだわ。

でもポーランドでは直接西側(前回に続き死語だわ!)と国境を接していないからか、射殺されたり、死刑になったという話しはほとんど聞いたことがありません。それどころか、亡命に成功してから残した家族に送金したり、小包を送ったりという話しは多く聞くのよね。亡命に失敗して痛い目にあった人たちもたくさんいるのだろうけど、あまり残酷な話しは聞いたことがないわね。

そもそもポーランド人って、各国に移民もたくさんいるし、必ずといっていいほど親戚の誰かがアメリカにいるのよね!(シカゴのポーランド人街は皆さんもご存知ね?)だから、1度国外に出てしまうと、亡命なのか移民なのかあまり関係ないみたいね。通常ポーランド系移民のことを総称してポロニアというけど、亡命者を含めて外国にいるポーランド人は皆、このポロニアに含まれているみたい。(学問的には正しくないでしょうが)

だからポーランドの場合、亡命といってもあまり深刻な感じがしなかったなー。何を隠そう私の元彼もアメリカに亡命しちゃったのよね。彼以外にも何人かの知人が亡命したみたい(一緒にということではなくて)。みたいというのは亡命した後に「本当に亡命したの?」とは確認できなかったので。

そのほとんどの場合は男性(しかも若い!)だったわね。女性の場合は、外国人と結婚してしまえば、一生安泰みたいなところはあったみたいね。当時、結婚相手として人気が高かったのは日本人となぜかフィンランド人。これはエディタ・ゲペルトという歌手もその頃歌っていたわ。

だからかどうか知らないけれど、ある日本人の男性が新聞広告に「花嫁募集、当方日本人」と出したら、何百人という募集があったらしい….. 同様にポーランド女性にもてるのをいいことに、援助交際(そんな言葉は当時無かったけど)していた日本人男性は、「私、妊娠したの」の一言で何百ドルも巻き上げられてしまったり……
まあ、これは悪い例だけど。逆ナンパ(というのかしら?)は頻繁だったようね。私の知人で当時からこちらに住んでいる人は、「最近もてなくなった….」と言っていました。(それはあんたが年なんだよ!全く!)

(脱線するけど、女性だって日本人が人気NO.1だったのよ!でもその頃テレビで日本の「おしん」が放映されていて、街を歩いているとおしん、おしんと言われていたから、ひたすら耐えるおしんのイメージが日本人女性にはあったのかも?ポーランドの男性諸君!ドラマと現実は違うんだよ!)

学生の頃に「どこかにいい男はいないものか?」とクラスで話していると、ポーランド人の女友達曰く、「まともな男は皆、国を出てしまってるから残っているのはろくでもない奴ばっかり!」だって。うーん、実感ありました。容姿はともかくしっかりしている男性は、ちゃんと自分の将来を考えて、ポーランドに残るか、亡命するかの決断しなければならなかったのよね。

その理由は、学校を卒業すれば軍隊に行かなければならない。つまり徴兵ね。軍隊に1年とか2年とか行って就職するわけだけど、そのほとんどは国営企業でしょ。首にされることはなくても、大して出世することもなく、給料だって変わらない。イコール、将来に希望が持てない!おまけに軍事は国家機密だから、徴兵が終わっても3年ぐらい国外には出られないんだって。だから学生時代というのは最後のチャンスとも言えるかもしれないわね。

それに私事で申し訳ないけど、その亡命した彼、西ベルリンで亡命申請(?)、西ドイツ経由でアメリカに亡命して今や立派な実業家よ!西ドイツでアメリカへの移住許可を待つ1年ぐらいの間に、ドイツ人の名義を借りて会社を作り、実質的な社長。月に100万円ぐらい稼いでました。(変な商売ではなくてトラックなんかの運送業をしていました)

西ドイツにのこのこ逢いに行った私は、「そんなに成功してんだから、アメリカじゃなくてドイツに残れば?」といったのですが、信念を曲げずに渡米して、貯めたお金であちらの大学を卒業、その後ビジネスも成功して現在に至る。(ああ、後悔先に立たず!私の独り言….)少なくとも彼の場合は亡命して正解だったのではないでしょうか?

亡命した人だけを評価するのは私の本意ではありません。ポーランドに残ったまともな友人ももちろんいました。彼は工科大学を主席で卒業後、更に軍大学に入学し、遅れているといわれていたポーランド軍の精密機械等の改善(研究)に励みました(軍事機密だから内容はよく知らない)。実は私の元彼とこの彼は小学校以来の大の親友でした。お互いに自分の道を貫こうと誓いあったのも知れませんね。男の友情、いいですな。

音楽やデザイン、演劇に携わる人たち(アーティストですな!)もきっとそうでしょう。ポーランドに残るかどうかということよりも、自分の道を歩いていくか否かということなのかもしれません。それはポーランドという国の中でも外でもきっと変わりはないのね、多分…. でも、少なくとも私たち日本人の知らない亡命という選択により、自分自身の可能性を見極めることができたのも事実だと、最近思うようになりました。

なんか、自分でも言いたいことが良く分からないけれど、亡命というのは一歩間違えれば逃亡とも考えられるじゃない?亡命しても運がなくて結果的に選択を失敗したと思っている人たちもたくさんいると思う。逆に亡命しなかったことが愛国心と錯覚している人たちもいるのよね。だからこそ、亡命したとかしなかったということよりは、そういう選択肢があって、その時、真剣に自分自身の将来や可能性を考えるか、惰性にしてしまうかという違いは社会的なものというよりも自分自身に起因していると思うの。

私の元彼の亡命後、彼のお母さんを訪ねた時、彼女はこう言っていました。「心配でないと言えば嘘になる。でもね、親は子供が幸せであれば、自分も幸せになれるのよ……」

1989年の自由化に伴い、90年だか、91年に「天国までの1000マイル(?)」(ティションツ・ミル・ド・ニェバ)とかいうポーランド映画(ごめんなさい、何マイルだったかは正確に覚えていません!)があって、80年代のポーランドで幼い兄弟がデンマークに亡命してしまうお話し。この映画の中で、兄弟がデンマークから両親に電話します。家出みたいなつもりでデンマークまで来てしまった兄弟は両親に早く帰って来いと言って欲しい。でも両親は「帰って来い…… いや、やっぱり帰って来るな!元気にそっちで生きるんだ!」というのでした。

実際にそんな体験を持っていない私は、本当は亡命に関して何もいうことなんかできません。何が正しく、何が間違っているのか?そして私たち自分自身は何を目指しているのか?どう答えを見つけましょう……?

ワルサワ クラコ

(写真はniepoprawni.plのものです)