なんか今週は皆さんの反応が全然ありませんでしたねー。 やっぱり話しが暗すぎる(重すぎる)かしら? 前回は出戻りについて書いたけど、出戻りだけでは片手落ちだから今回は居残り組についてもちょっと書いてみようかしら。(面白くなくても意見は聞かせてね) 例えば80年代に私が住んでいたアパートの隣のお兄ちゃんの話し。年齢はあまり変わらないんだけど、このお兄ちゃんのところは母親と2人ぐらし。電話もまだついていないから、時々家に借りに来たのね。一応車ももってたけど、東ドイツ製のやつで公害を撒き散らしていたわね(ヴァルツブルグって知ってる?)。仕事はなんか適当にやっているみたいだったけど、お世辞にも豊かな暮らしとは言えなかったわね。 ただ、ここからが彼の人生を変えたのね。まだ20代後半の彼は、知り合いに薦められてある政党に入ったわけ(その政党も実にふざけた政党なんだけどここでは省くわ)。総選挙の結果、その政党が議席を確保して、なんとこの兄ちゃん、上院議員になってしまったのよ。 そこからが凄いのね。電話なんてすぐ付くし、車もおニューに買い換えて、傍から見ていても生活が派手になっていったわ。おまけにテレビの司会なんかの副業(これっていいのかな?と思っていたけど)をはじめて、今や人気タレントよ。某テレビ局によく出ているわ。(サインでももらっておけば良かったかしら!)上院議員はきっと辞めたのね。いったいいくらの給料をもらっていたんだー!ひと時ヤッピーになんて言葉が流行っていたけど、その典型ともいえますな。 それから、80年代にはある国営企業の平社員だったおじさんが、民営化と共に社長さんになったなんてこともあったわね。いやその手腕を買われて抜擢なんていうんだったらそれもわかるんだけど、大体国営企業のお偉いさんなんて共産党員だったろうから、民営化と共に居ずらくなるじゃない。かといってどっかから適当にというわけもにもいかないから、年功序列式に上がったようなものよね。本人がびっくりしてたわ。 まあ、通常はポーランドではイタリア・マフィアのように家族意識やコネが強いから、一族の1人が社長にでもなれば、従兄とか、義弟とかが幹部になるケースが多いのよね。民間ならそれもわかるけど、国営でもそれが通ってしまうこともあるのよ。 ついこの前も国営企業(まだ完全に民営化されていない)の社長や幹部の給料に上限を設けようなんて問題があったけど、私に言わせて貰えば当たり前じゃない!椅子に座ってウオッカ飲んで何百万円も給料もらって、いったいあんたは何者だと。自分で苦労して作った会社ならともかく、日本風に言えばたなぼたでしょう? その点、ワレサ(本当はワウェンサと読むんだけど)さんは偉かったわね。「自分の給料は多すぎる」といえたんだから。少なくとも10年前にはね。 ワレサさんと言えば、90年の民主化以降始めての大統領選挙の時、ティミンスキとかいうカナダ(だったと思う)に移民したポーランド人があと一歩で大統領になっていたかもしれないのよね。これって言い方は悪いけど、典型的な出戻り対居残りの戦いだったわけね。この時はなんとか居残りが勝ったのよ。 私のように80年代を知っている人間からみると、出戻り組の主張することというのは、どうも合理主義的で、みんなで頑張ろうと口ではいっていても、1番つらかった時期に自分はいなかったくせにと思ってしまうのよね。みんながお金持ちになれるんだ、みんなが大統領になれる可能性があるんだって言われても、具体的には何すんの?という感じ。資本主義の中で学んだことは金儲けだけなの? 一方、居残り組というのは夢なんてなくて現実的なのよね。特に連帯出身の人たちって、前首相のマゾビエツキやガゼタのミフニックだって、みんな刑務所入れられていたわけじゃない。顔色も悪かったし、なんか重い(怖い)わよ。 今も延々と続いているUB狩り(?)は、社会主義の下で秘密警察に関わっていた人は国会議員や国を代表するような役職にはつけないというものなんだけど、実際に調査が入ったら偽の誓約書を提出していた現役の国会議員が結構いたのよね。本人たちは否定しているから、真贋の決着は長引きそうだけど。 私たち日本人からみれば、過去のことはさっぱり水に流して新しい自由なポーランドを作ればいいじゃんと思うようなところもあるわよね。だってそういうことにお金と時間がたっぷりかかってしまうじゃない。そのエネルギーをもっと前向きに転換して、国づくりに励めば急成長できるかもしれないのに。 戦後の日本だってある意味では、過去のことを水に流してしまった(日本の場合はそうやって逃げた?)から、ファシストからエコノミック・アニマルに変身できたのよね。発想の転換よね。ドイツだってそういうところはあるじゃない?日本よりはもっと誠実かもしれないけどね。 第2次世界大戦で、その80%を破壊されたワルシャワの街が、戦後市民一人一人の手で元通りに復元されました。そのエネルギーは一体何だったのか?もう一度よく考えてみませんか?合理的だけでは割り切れない何かがあるのよね、きっと…. うーん、またまた話しがチンプンカンプンになってしまったようだわ。 なんか、悪い例ばかりを紹介してしまったようだけど、いいことだって一杯ありますよ。ただ、自由化、自由化といっても全てが良くなった訳ではないことを忘れないためにこのクラコが膿をだしているのです。 私が望むことは、せっかく自由を取り戻した今のポーランドが出戻り、居残り、外国人で利権を貪りあい、再び3分割なんてことにならないことかしら。そういう意味でも若い世代はヤッピーなんていっていないで、もっとしっかりやって欲しいわ!(クラコも年かしら?) それではみなさん、また! ワルサワ クラコ (写真はnatemat.plのものです) 関連記事 / Related posts: ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:配給券 ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:ドル ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:亡命 ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:亡命2 – 出戻り
前回に次回は明るい話題をと宣言したんだけど、忘れないうちに亡命編に付け足しておきたいことがあります。 それは90年代前半の亡命者たちの出戻りについてなの。開放されたポーランド、自由な祖国に帰ってくる人たちが多くいるのは当然といえばそうなんだろうけど、私個人としては、その中の1部の人たちにはあまり好感が持てませんでした。当事私がよく考えていたことがあるので、今回はちょっとそのお話しをさせてください。 あのポーランドの80年代(もしくはそれ以前)を逃れ、外国に出た人たちも色々と苦労はあったと思うのね。でもそれによってポーランドでは得られない収入があったのも事実。特にポーランドに帰国することを考えれば、100万円の貯金だって大した財産だったと思うわ。1部の人たちはそういうお金で、例えば土地転がしをして儲けました(はっきりいわせてもらいます)。中級マンションや土地を買いまくり、値段が高騰したところで転売。これだけでも何百万円というお金が手に入ったのよねー。 自由化前にはアパートはほとんどが公団からの賃貸形式で、居住権はあっても売買は出来なかったんですよ。ところが自由化以降は希望すれば購入して自分の資産とすること(ただしそこに現在居住権があれば)ができるようになりました。私の知人のアパートでは90年ぐらいの頃、確か2000ドル程度で自分のものに出来たと記憶しています。でもその知人は当事、そんな資本金はなかったのよね。それに、いくら自由化といったって、今後どうなるのかなんてわからないじゃない? 当事は、大金をはたいて住居を自分のものにしたって、いつ政情が変わってドクトル・ジバコのように全てを失ってしまうかわからないという不安もあったわけよ。別に住居を購入しないとアパートを追い出されるというわけではなかったから。 それを出戻り組のひとはここぞとばかりにつぎ込んだわけね。当事はまだ、100%の外国人は不動産を購入するにはいくつもの難関があったから、ほとんどはポーランド人が投資したといってもいいでしょ。(中にはポーランド人の名義を利用して外国人や外資系企業が買っているということも多々あったでしょうけど) もう一つ、出戻り組に良くあるのは、例えばドイツに亡命してドイツの企業に就職するわよね。自由化と共にその会社がポーランド進出。もともとポーランド人ということもあるから、所長待遇で支社を任されたりしてね。実は私の知人にもこれと全く同じケースがあって、学生の頃は貰いタバコしていたあの彼が、今や某有名企業の所長だって!以前にばったりあったらちゃんとスーツ来てサラリーマンやっていたわ。 別に出戻り組の人を悪くいうつもりはないのだけれど、80年代にポーランドに残った人たちが「さあ、自由化だ!皆で新しいポーランドを作って行こう!」となったのならまだしも、実際には外国で得た資本に食い荒らされ、国内の貧富の差が広がってしまったという一面もあるわけなの。 前回私が書いたように、国を離れるということはその人にとっては大変な決断だと思うのよね。色々な事情があってポーランドを離れたのだから、できることなら外国で成功して欲しいわね。なぜなら、例えば親と喧嘩して家出した放蕩息子が、親父が死んだのをきっかけに、財産をあてにして家に帰ってくるのに似ていないとはいえないんじゃない?。(日本人的な考えかしら?) 前にも書いたけど、経済学的なこととかは良くわからないんだけど、外国資本が必要だっていうことは私にだってわかるわ。ビジネスである以上利益を出さなければならないこともね。でも私が気になるのは、ポーランドが切り売りされているような実態なの。それもポーランド人自身によって。 第2次世界大戦で、その80%を破壊されたワルシャワの街が、戦後市民一人一人の手で元通りに復元されたでしょ。そのエネルギーは一体何なの?合理的に考えれば無駄なことじゃない?そんなお金と労働力があるなら、近代的な街づくりをした方が有意義なんじゃない?ワルシャワ復元のこの発想は決して社会主義イデオロギーから発したものではないのよね。その証拠に市民が復興の寄付までしているんだから。 つまり、ポーランドには(ポーランドでなくてもそうかも知れないけど)そういう合理主義では割り切れない何かがあったわけ。ビジネスでもなくイデオロギーでもなくて。それがもし自由化=資本主義が至上の目的になってしまったら、ポーランドはただのヨーロッパの後進国(発展途上国?)に成り下がってしまうじゃない? ポーランドを出た人も残った人もまさか、そんな祖国を目指しているわけではないでしょう?コペルニクス、ショパン、キューリー夫人を生んだ国なんだから、過去に誇りを持つだけではなく、これからのポーランドにも誇りを持っていって欲しいと思います。 そして私たち外国人も、ポーランドにもっと献上してもいいはずよ。企業レベルなら、工場の土地を利用して地元民が楽しめる開放用の娯楽施設をつくるとか、もっと地道に日本文化を紹介する講習を催すとか色々あると思うわ。進出した企業だって経済特区を重視しなくても、地元に歓迎されてポーランドに進出したことを誇りに出来るようになったら、双方にとってこんな素晴らしいことはないんじゃない。 個人レベルだって折り紙や生け花を習いたいというポーランド人がどれだけいることでしょう。そういう1歩1歩は、私たちがいつかポーランドを去る時が来ても、その足跡はきっと残るのんじゃない?別に日本文化と特定しなくても、私たちの笑顔一つがこのポーランド、そして日本にとって意味のあることではないかと思えてなりません。 もちろん、理想論ということはわかっているけど、それを目指すか無視するかは全然違うと思うのね。もし、そういうことが実現できるなら、こんなちっぽけな存在である私にも何らかしらの意義があったということでしょ。もしそうならなければ…….? またまた、支離滅裂なんだけど、冬のポーランドで雪の降る夜にお散歩して見てください。そこには誰かは分からない足跡がいくつか残っています。それを見た私たちはきっと、何か暖かい気持ちになれるのではないでしょうか? ちょっとシリアスなクラコでした。(感情的になってごめんなさい) (写真はpl.wikipedia.orgのものです) 関連記事 / Related posts: ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:居残り ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:配給券 ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:ドル ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:亡命
80年代のポーランドでは外国へ亡命してしまう人たちがいました。昔ベルリンの壁を越えようとして射殺されたり、地雷を踏んで命を落としたした人たちがいるんですから、亡命するということは本当に命がけだったんだわ。 でもポーランドでは直接西側(前回に続き死語だわ!)と国境を接していないからか、射殺されたり、死刑になったという話しはほとんど聞いたことがありません。それどころか、亡命に成功してから残した家族に送金したり、小包を送ったりという話しは多く聞くのよね。亡命に失敗して痛い目にあった人たちもたくさんいるのだろうけど、あまり残酷な話しは聞いたことがないわね。 そもそもポーランド人って、各国に移民もたくさんいるし、必ずといっていいほど親戚の誰かがアメリカにいるのよね!(シカゴのポーランド人街は皆さんもご存知ね?)だから、1度国外に出てしまうと、亡命なのか移民なのかあまり関係ないみたいね。通常ポーランド系移民のことを総称してポロニアというけど、亡命者を含めて外国にいるポーランド人は皆、このポロニアに含まれているみたい。(学問的には正しくないでしょうが) だからポーランドの場合、亡命といってもあまり深刻な感じがしなかったなー。何を隠そう私の元彼もアメリカに亡命しちゃったのよね。彼以外にも何人かの知人が亡命したみたい(一緒にということではなくて)。みたいというのは亡命した後に「本当に亡命したの?」とは確認できなかったので。 そのほとんどの場合は男性(しかも若い!)だったわね。女性の場合は、外国人と結婚してしまえば、一生安泰みたいなところはあったみたいね。当時、結婚相手として人気が高かったのは日本人となぜかフィンランド人。これはエディタ・ゲペルトという歌手もその頃歌っていたわ。 だからかどうか知らないけれど、ある日本人の男性が新聞広告に「花嫁募集、当方日本人」と出したら、何百人という募集があったらしい….. 同様にポーランド女性にもてるのをいいことに、援助交際(そんな言葉は当時無かったけど)していた日本人男性は、「私、妊娠したの」の一言で何百ドルも巻き上げられてしまったり…… まあ、これは悪い例だけど。逆ナンパ(というのかしら?)は頻繁だったようね。私の知人で当時からこちらに住んでいる人は、「最近もてなくなった….」と言っていました。(それはあんたが年なんだよ!全く!) (脱線するけど、女性だって日本人が人気NO.1だったのよ!でもその頃テレビで日本の「おしん」が放映されていて、街を歩いているとおしん、おしんと言われていたから、ひたすら耐えるおしんのイメージが日本人女性にはあったのかも?ポーランドの男性諸君!ドラマと現実は違うんだよ!) 学生の頃に「どこかにいい男はいないものか?」とクラスで話していると、ポーランド人の女友達曰く、「まともな男は皆、国を出てしまってるから残っているのはろくでもない奴ばっかり!」だって。うーん、実感ありました。容姿はともかくしっかりしている男性は、ちゃんと自分の将来を考えて、ポーランドに残るか、亡命するかの決断しなければならなかったのよね。 その理由は、学校を卒業すれば軍隊に行かなければならない。つまり徴兵ね。軍隊に1年とか2年とか行って就職するわけだけど、そのほとんどは国営企業でしょ。首にされることはなくても、大して出世することもなく、給料だって変わらない。イコール、将来に希望が持てない!おまけに軍事は国家機密だから、徴兵が終わっても3年ぐらい国外には出られないんだって。だから学生時代というのは最後のチャンスとも言えるかもしれないわね。 それに私事で申し訳ないけど、その亡命した彼、西ベルリンで亡命申請(?)、西ドイツ経由でアメリカに亡命して今や立派な実業家よ!西ドイツでアメリカへの移住許可を待つ1年ぐらいの間に、ドイツ人の名義を借りて会社を作り、実質的な社長。月に100万円ぐらい稼いでました。(変な商売ではなくてトラックなんかの運送業をしていました) 西ドイツにのこのこ逢いに行った私は、「そんなに成功してんだから、アメリカじゃなくてドイツに残れば?」といったのですが、信念を曲げずに渡米して、貯めたお金であちらの大学を卒業、その後ビジネスも成功して現在に至る。(ああ、後悔先に立たず!私の独り言….)少なくとも彼の場合は亡命して正解だったのではないでしょうか? 亡命した人だけを評価するのは私の本意ではありません。ポーランドに残ったまともな友人ももちろんいました。彼は工科大学を主席で卒業後、更に軍大学に入学し、遅れているといわれていたポーランド軍の精密機械等の改善(研究)に励みました(軍事機密だから内容はよく知らない)。実は私の元彼とこの彼は小学校以来の大の親友でした。お互いに自分の道を貫こうと誓いあったのも知れませんね。男の友情、いいですな。 音楽やデザイン、演劇に携わる人たち(アーティストですな!)もきっとそうでしょう。ポーランドに残るかどうかということよりも、自分の道を歩いていくか否かということなのかもしれません。それはポーランドという国の中でも外でもきっと変わりはないのね、多分…. でも、少なくとも私たち日本人の知らない亡命という選択により、自分自身の可能性を見極めることができたのも事実だと、最近思うようになりました。 なんか、自分でも言いたいことが良く分からないけれど、亡命というのは一歩間違えれば逃亡とも考えられるじゃない?亡命しても運がなくて結果的に選択を失敗したと思っている人たちもたくさんいると思う。逆に亡命しなかったことが愛国心と錯覚している人たちもいるのよね。だからこそ、亡命したとかしなかったということよりは、そういう選択肢があって、その時、真剣に自分自身の将来や可能性を考えるか、惰性にしてしまうかという違いは社会的なものというよりも自分自身に起因していると思うの。 私の元彼の亡命後、彼のお母さんを訪ねた時、彼女はこう言っていました。「心配でないと言えば嘘になる。でもね、親は子供が幸せであれば、自分も幸せになれるのよ……」 1989年の自由化に伴い、90年だか、91年に「天国までの1000マイル(?)」(ティションツ・ミル・ド・ニェバ)とかいうポーランド映画(ごめんなさい、何マイルだったかは正確に覚えていません!)があって、80年代のポーランドで幼い兄弟がデンマークに亡命してしまうお話し。この映画の中で、兄弟がデンマークから両親に電話します。家出みたいなつもりでデンマークまで来てしまった兄弟は両親に早く帰って来いと言って欲しい。でも両親は「帰って来い…… いや、やっぱり帰って来るな!元気にそっちで生きるんだ!」というのでした。 実際にそんな体験を持っていない私は、本当は亡命に関して何もいうことなんかできません。何が正しく、何が間違っているのか?そして私たち自分自身は何を目指しているのか?どう答えを見つけましょう……? ワルサワ クラコ (写真はniepoprawni.plのものです) 関連記事 / Related posts: ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:居残り ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:配給券 ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:ドル ワルサワ・クラ子の80年代のポーランド:亡命2 – 出戻り