独立記念日 (Święto Niepodległości) – ポーランドの祝祭日

11月11日はポーランドの独立記念日(Święto Niepodległości – シフィエント・ニエポドレグウォシチ)です。これは1918年に第1次世界大戦が終結し、ヴェルサイユ条約によってポーランドが独立国家になったことを祝う日です。1795年にオーストリア帝国・プロイセン王国・ロシア帝国によってポーランド分割が行われ、ポーランドが地図上から姿を消してから123年ぶりの独立でした。 この祝日は1920年より始まりました。1936年までは11月7日が独立記念日でしたが、1937年からは11月11日に祝われるようになりました。11月11日は1918年、「ポーランド独立の父」と言われているユゼフ・ピウスツキが国家元首になった日です。しかしその後1945年からは7月22日「ポーランド国民解放委員会マニフェスト記念日」に取って代わられてしまいますが、1989年にポーランドが民主化してから再び祝われるようになりました。この日は国民の祝日で、学校も会社も商店も全てお休みになります。 この日はあちらこちらで、ポーランドの独立を祝うパレードやコンサートなどのイベントがあります。しかしここ数年、この日は毎年ワルシャワでナショナリストの若者達のパレードがあり、残念ながら暴動になったこともあります。この日に外出予定のある方は、ニュースや新聞でパレードの開催場所を事前に調べておいうたほうがいいでしょう。 関連記事 / Related posts: ポーランドの祝日一覧 聖木曜日(Wielki Czwartek) – ポーランドの祝祭日 メーデー (Święto Pracy) – ポーランドの祝祭日 公現祭 (Święto Trzech Króli) – ポーランドの祝祭日 聖母の被昇天の祝日 (Święto Wniebowzięcie Najświętszej Maryi Panny) – ポーランドの祝祭日

男の子の日 (Dzień Chłopaka) – ポーランドの祝祭日

9月30日は「男の子の日 (Dzień Chłopaka – ジェン・フウォパカ)」とされています。この日、少女達は好意を持つ少年や男性の友人にカードやお菓子などのちょっとしたプレゼントを渡します。しかし「女性の日」のようにポピュラーな日ではないので、少年たち自身もこの日のことを知らない人が多いようです。 ちなみにこの日はあくまでも「男の子の日」であり、対象は少年たちです。大人の男性のための「男性の日」は「女性の日」から2日後の3月10日なので、くれぐれも間違えないようにしましょうね! 写真は zs1reda.eu, gim4plock.plのものです。 関連記事 / Related posts: 男性の日 (Dzień Mężczyzn) – ポーランドの祝祭日 祖母の日 (Dzień Babci) – ポーランドの祝祭日 姑の日(Dzień Teściowej) – ポーランドの祝祭日 死者の日 (Dzień Zmarłych) – ポーランドの祝祭日 祖父の日(Dzień Dziadka) – ポーランドの祝祭日

聖母の被昇天の祝日 (Święto Wniebowzięcie Najświętszej Maryi Panny) – ポーランドの祝祭日

8月15日は聖母の被昇天の祝日です。ポーランド語ではŚwięto Wniebowzięcie Najświętszej Maryi Panny(シフィエント・ヴ二エボヴジェンチェ・ナイシフィエンチシェイ・マリイ・パンヌィ)といいます。 これは1950年、ローマ法王ピオ12世によって定められたカトリックの聖日で、聖母マリアがその人生の終わりに肉体と霊魂を伴って天国にあげられたことを記念するものです。この日は全国の教会で盛大なミサが行われますが、なんと言っても有名なのは、チェンストホヴァ(Częstochowa)のヤスナ・グラ(Jasna Góra)修道院への巡礼でしょう。8月15日を目指し、ポーランド全土から多くの巡礼者たちが集まってきます。何百キロの道のりを10数日もかけて歩いてくるグループもいれば、自転車やローラースケートに乗ってくる人たちもいたりと様々です。ちなみにこの日は国民の祝日のため、会社や商店もお休みになります。 さて、実は8月15日にはもうひとつ祝日が制定されています。それはポーランド軍の祝日(Święto Wojska Polskiego – シフィエント・ヴォイスカ・ポルスキエゴ )。これは1920年、ポーランド・ソビエト戦争でのワルシャワの戦いでポーランド軍が勝利したことを記念するもので、1992年に正式に祝日として制定されました。この日、軍と関係のある教会ではミサが行われ、墓地では亡くなった軍人たちの名前が点呼される他、ワルシャワの無名戦士の墓の前では記念式典が行われ、ポーランド共和国大統領他、政府要人が多数出席します。 (写真はsodalicja.plのものです) 関連記事 / Related posts: 聖母の被昇天の祝日 / Wniebowzięcie Najswiętszej Maryi Panny 死者の日 (Dzień Zmarłych) – ポーランドの祝祭日 メーデー (Święto Pracy) – ポーランドの祝祭日 独立記念日 (Święto Niepodległości) – ポーランドの祝祭日 公現祭 (Święto Trzech Króli) – ポーランドの祝祭日

ワルシャワ蜂起の日 (Narodowy Dzień Powstania Warszawskiego) – ポーランドの祝祭日

1944年8月1日、ドイツ占領下にあったワルシャワで、ポーランド国内軍そして市民によるドイツ軍に対しての武装蜂起が起きました。これはワルシャワ蜂起(Powstanie Warszawskie – ポフスタニェ・ヴァルシャフスキェ)と呼ばれています。 開始当初はすぐ終わると思われていた蜂起は最終的には63日にも及びました。武器・物資も充分ではなく、連合国側であったソビエト赤軍は先にヴィスワ川右岸のプラガ地区を解放するも蜂起軍を援助することなくその場で傍観を決め込み、劣勢に追い込まれた蜂起軍はついに10月2日、ドイツ軍に降伏しました。この蜂起で約1万6000の国内軍兵士、15~20万人のワルシャワ市民が犠牲になり、約65万人がワルシャワから追放されました。その後1945年1月になると、ソビエト軍は廃墟と化したワルシャワを侵略。ポーランドの社会主義時代が始まります。 ワルシャワ蜂起が始まった8月1日の17:00はGodzina W (ゴジナ・ヴー – 時刻W)と呼ばれており、毎年この時間になると市内にはサイレンが響き渡ります。道を歩く人も車も立ち止まり、祖国の自由のために戦った人たちへ1分間の黙祷を捧げるのがならわしとなっています。 2009年、故レフ・カチンスキ大統領のイニシアチブにより8月1日は「ワルシャワ蜂起の日(Narodowy Dzień Powstania Warszawskiego)」と制定されました。 (写真はwiadomosci.wp.plのものです) 関連記事 / Related posts: 電気技術者の日 (Dzień Energetyka) – ポーランドの祝祭日 ヨーロッパの日(Dzień Europy) – ポーランドの祝祭日 シベリア抑留者の日 (Dzień Sybiraka) – ポーランドの祝祭日 国際カーフリーデー (Światowy Dzień bez Samochodu) – ポーランドの祝祭日 姑の日(Dzień Teściowej) – ポーランドの祝祭日

グルンヴァルドの戦い (Bitwa pod Grunwaldem)

グルンヴァルドの戦い (Bitwa pod Grunwaldem)とは1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で行われた戦闘のことです。 この戦闘の舞台は現在ポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルド村・ステンバルク村そしてウォドヴィゴヴォ村の間にある平原でした。それまでドイツ騎士団はキリスト教布教の名目で各地域を侵略してきました。当時東ヨーロッパでは唯一リトアニア大公国がキリスト教ではありませんでした。しかし1386年、リトアニア大公のヤギエウォがポーランド王女ヤドヴィガと結婚してポーランド王ヴワディスワフ2世となり、ポーランド王国とリトアニア大公国の両方の王となりました。それにともない、リトアニア大公国もキリスト教に改宗しました。これではドイツ騎士団はリトアニアに侵略できません。その上、1409年にドイツ騎士団領だったジュムジでの反乱をリトアニア大公国が支援したことがドイツ騎士団の反感を買い、戦いに至りました。この戦いに勝利したポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の領土をもつ強国として最盛期を迎えました。 毎年7月中旬になると、この中世の戦いを記念してグルンヴァルト村の戦場跡で戦いを再現するイベントが行われ、国内外から毎回多くの観客を集めています。2010年3月にはリトアニア共和国のウンブラサス副国防相がポーランドを公式訪問してポーランド政府側と会談し、ポーランド王国とリトアニア大公国が協力して勝利したこの戦いの600周年を記念して、2010年からはリトアニア共和国も国を挙げてこの祭りに参加しています。 (写真は当時戦いのあったグルンヴァルド村です) 関連記事 / Related posts: ポーランドの女子相撲 / Kobiece sumo w Polsce

ポーランドの父の日(Dzień Ojca) – ポーランドの祝祭日

6月23日はポーランドの父の日です。ポーランド語ではDzień Ojca(ジェン・オイツァ)といいます。 もともとは1909年、アメリカ・ワシントン州にあるスポケーンという街に住んでいたソノラ・スマート・ドッドという女性が、男でひとつで自分を含めた6人の子どもを育ててくれた父親への敬意を表し、父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことが父の日が祝われるきっかけになったと言われています。最初の父の日の式典は1910年6月19日にスケポーンで行われました。 ポーランドで父の日が行われるようになったのは1965年。母の日と同じくカードを書いたり、電話をかけて日ごろの感謝の気持ちを伝えたりしますが、どうも母の日と比べると今イチ盛り上がりに欠ける祝日という印象は否めません。父親のためカードがよくシャツやネックタイの形をしています。 やはり母親に比べると、父親に気持ちを伝えるのは照れくさいと言うことなのでしょうか。せっかくの機会、たまには父親とじっくり話してみるのもいいかもしれないですね。 写真はkredkowo.pl, edziecko.plのものです。 関連記事 / Related posts: 男性の日 (Dzień Mężczyzn) – ポーランドの祝祭日 姑の日(Dzień Teściowej) – ポーランドの祝祭日 男の子の日 (Dzień Chłopaka) – ポーランドの祝祭日 死者の日 (Dzień Zmarłych) – ポーランドの祝祭日 女性の日 (Dzień Kobiet) – ポーランドの祝祭日

フレデリック・ショパン (Fryderyk Chopin)

「ピアノの詩人」と呼ばれ、世界中の音楽ファンを魅了してやまない作曲家、ショパン。 ポーランド人の誇りであるこの偉大な音楽家、フレデリック・フランチシェック・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)は1810年3月1日、ワルシャワから西へ50kmのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)という村で、ショパン家の2番目の子供として生まれました。彼の父ミコワイ・ショパン(Mikołaj Chopin)はフランス人で、ポーランドに来て貴族の子弟達にフランス語を教えていた時に、貴族スカルベク家の侍女だったユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と知り合い結婚。長女ルドヴィカ(Ludwika)、長男フレデリック、次女イザベラ(Izabela)、三女エミリア(Emilia)の4人の子供に恵まれました。 ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家 フレデリックが生まれて半年後、父・ミコワイにワルシャワ高等学校でフランス語教師の仕事が決まり、一家はワルシャワへ引っ越してきます。 ショパンの両親はふたりとも音楽が好きで、母はピアノを弾き歌も歌い、父はフルートとバイオリンを、姉ルドヴィカもピアノを弾いていました。そんな環境の中で育ったショパンは姉からピアノの手ほどきを受け、6歳になるとチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィ(Wojciech Żywny)にピアノレッスンを受けるようになります。この少年に特別な才能があると気づいたジヴヌィはバッハやモーツアルトなどをみっちり教えつつ、ショパンの持つ即興演奏の才能を見守っていきます。このころショパンは初めてポロネーズや行進曲などを作曲したり演奏会に出るなどして、「天才少年現る」との声を欲しいままにしました。11歳の時には、ワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の前で御前演奏をしています。 1812年からショパンは著名な作曲家であるユゼフ・エルスネル(Józef Elsner)に時々プライベートレッスンを受けるようになります。また当時有名だったヴィルトゥオーゾ・ピアニストのヴィルヘルム・ヴァツワフ・ヴルフェル(Wilhelm Wacław Würfel)にピアノを習っていたようです。 1823年になるとショパンはワルシャワ高等学校に入学します。この学校に通う生徒は地方の裕福な家の子弟が多く、ショパンは夏休みにはクラスメート達の家に招待されることもありました。その中でも1824年と1825年に訪れたシャファルニア(Szafarnia)という田舎の生活と風景は彼に強烈な印象を与え、両親に向けて「シャファルニア新聞」と題した手紙を送っていました。さまざまな地方を訪れることによってショパンはポーランドの民族文化そして音楽に触れましたが、それはのちの彼の作品に大きな影響を与えています。また、高校在学中に学生ミサのオルガニストを務めた事により、オルガン音楽やポーランドの賛美歌を知ることが出来たのでした。 1826年、ショパンはエルスネルが校長を務めていた中央音楽学校に入学します。1年生の時点ですでにエルスネルはショパンについて「類まれな才能」と評していました。この学校でショパンは作曲・音楽理論・通奏低音を学び、“ラ・チ・ダレム・ラ・マーノのテーマによる変奏曲、作品2”や“ソナタ ハ短調、作品4”そして“ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク 作品14”などを作曲します。 在学中ショパンはある女性に恋心を抱くようになります。相手はコンスタンツィア・グワトコフスカ(Konstancja Gładkowska)という音楽学校の声楽科の生徒でした。ショパンは「彼女のことを夢に見る」と親友へ告げており、ピアノ協奏曲ヘ短調の第2楽章は彼女を思って作曲されたのだそうです。 1829年、ショパンは音楽学校を卒業します。成績表に記されたエルスネルの言葉は「フレデリック・ショパン – 類まれな才能、音楽の天才」というものでした。卒業すると彼はすぐにウィーンへおもむき、2回の演奏会を行ってデビューを果たしました。聴衆の反応はとても好意的で、これにより大きなモチベーションを得たショパンはさらに作曲に邁進するようになります。 1830年、前年のウィーンでのデビューの興奮冷めやらぬショパンと友人たちは、大規模な演奏会ツアーをしようと計画します。デビューコンサートですでにピアニストとしても作曲家としてもショパンの評判はヨーロッパ中に広まっていて、自信作である2曲目のピアノコンチェルトホ短調を書き上げ、ベルリンからも招待がきていました。 そして1830年11月2日、ついにショパンはウィーンへ旅立ちます。見送りにはショパンの親しい人たちが集まり、エルスネル教授がこのために作曲したカンタータが演奏され、コンスタンツィアはロッシーニの“湖上の美人”のアリアを歌いました。こうしてショパンは祖国を後にしたのでした。 ショパンはその後ポーランドに戻ることなく、1849年10月17日パリのアパートで息を引き取りました。姉のルドヴィカは遺言通りショパンの心臓をポーランドに持ち帰りましたが、ロシア政府の反応を恐れて当初はルドヴィカの家に隠された後聖十字架教会のカタコンベに移されました。その後1878年、フレデリックの甥であるアントニ・イエンジェイェヴィチによって柱の中に安置され、その2年後には胸像で飾られたエピタフが作られました。第2次世界大戦中に起きたワルシャワ蜂起の際、ドイツ軍はショパンの心臓の入った壷を持ち出し、ワルシャワの司教に委ねました。司教はそれを郊外にあるミラヌヴェクという村に隠し、ショパンの没後96年に当たる1945年10月17日、元あった場所に戻されました。 ワルシャワの聖十字架教会では毎年10月17日にはショパンを追悼するコンサートが行われ、モーツアルトのレクイエムが演奏されます。 ショパンの生涯については2018年NHK「ザ・プロファイラー」で放送されました。機会があればぜひご覧ください。 関連記事 / Related posts: ショパンゆかりの場所 ワルシャワ・その1 ポーランドのコンサートホール 夏のショパンコンサート “ショパンと彼のヨーロッパ”国際音楽祭(Międzynarodowy festiwal muzyczny „Chopin i jego Europa”) ショパンの死因はムコビシドーシス?

ポーランド民主化

1989年6月4日は、当時社会主義政権下のポーランドで第1回目の自由選挙が行われた記念すべき日でした。これは1980年代初頭に始まった民主化運動の高まりを受け、政府と独立自主管理労働組合「連帯」に代表される反体制勢力の話し合いの場として設けられた「円卓会議」で合意された内容により行われた選挙でした。 この選挙は6月4日・18日と2回にわたって行われ、その結果「連帯」勢力が圧倒的大勝利を収め、東ヨーロッパでは戦後初めてとなる民主主義政権が発足しました。また東ヨーロッパ民主化のきっかけとなった出来事でもあり、ポーランドの歴史においても、共産主義の一党独裁国家から民主主義国家になる大転換の出来事でもありました。 「連帯」の活動の軌跡および民主化までの道のりはグダンスクのヨーロッパ連帯センターで見学することができます。 ポーランドの民主化については以前NHK「東欧民主化20周年」で放送されています。機会があればぜひご覧ください。 関連記事 / Related posts: 関連記事がありません / No related posts.

聖体の祝日(Boże Ciało) – ポーランドの祝祭日

Boże Ciało(ボジェ・チャウォ)は日本語で聖体の祝日もしくは聖体節と呼ばれるカトリックの祝日です。正式名称Uroczyctośc Najświętszego Ciała i Krwi Pańskiej(ウロチストシチ・ナイシフィエンチシェゴ・チャワ・イ・クフィ・パンスキェイ)というのだそうですが、日常的にはBoże Ciałoと呼ばれています。 カトリック教会のほかにも一部の英国国教会やルーテル教会、またリベラル・カトリック教会などでも祝われます。これは聖体に対する祝日であり、キリストの人生における出来事を記念して祝うものではありません。 ポーランドでは14世紀初頭、クラクフ司教区のNankier(ナンキェル)司教が導入したのが始まりだそうですが、15世紀初頭には国内全ての教会で祝われるようになったそうです。中世・ルネッサンス時代はポズナンにある聖体教会(Kościół Bożego Ciała)でのお祝いがとても盛大で有名だったのだとか。 この日は各地でprocesja(プロツェシア)とよばれる行列があります。これはその街の神父が先頭に立ち、その町のキリスト教に関係のある場所(十字架やキリスト像・聖母マリア像のあるところなど)をまわるものです。行列の途中、このために特別に設置された4箇所の祭壇にたちどまり、そこで聖書の一節が読まれます。白い服をまとった子供たちが花びらを撒いたりと、なかなかにぎやかな光景です。 この聖体の祝日は移動祝日で、毎年三位一体の祝日の後の木曜日に祝われています。2020年は6月11日に当たります。また、国によってはその3日後の日曜日に祝うところもあります。伝統的にカトリック教国である国では国民の祝日です。もちろんポーランドもこの日は学校も会社も、お店なども全部お休みになります。   (写真はwww.poland.gov.plのものです) 関連記事 / Related posts: イースター(ポーランドの祝祭日) 死者の日 (Dzień Zmarłych) – ポーランドの祝祭日 ポピエレツ (Popielec) – ポーランドの祝祭日 ヴィエルキ・ポスト(Wielki Post) – ポーランドの祝祭日 聖金曜日(Wielki Piątek) – ポーランドの祝祭日

こどもの日 (Dzień Dziecka) – ポーランドの祝祭日

ポーランドのこどもの日は6月1日です。ロシアやチェコ・スロバキア・ウクライナ・ブルガリア・ルーマニアなどの旧社会主義国でもやはりこの日がこどもの日として祝われているそうです。 子供の日が平日の場合、学校は授業をお休みにします。そのかわりよく開催されるのがスポーツ大会で、成績のいい人は賞品がもらえます。天気が良ければ公園や移動遊園地に行って遊ぶこともあるんだとか。 おうちではもちろんプレゼントが待っています。ほとんどがお菓子やおもちゃ、本などですが、中学生くらいになるとプレゼントもお小遣いに姿を変えることが多くなるのだそうです。 またこの日は年に一度の「こども国会(Sejm Dzieci i Młodzieży – セイム・ジェチ・イ・ムウォジェジィ)」の日でもあります。これは1994年から行われているもので、全国16県から集まった460人の中学生・高校生たちがワルシャワの国会議事堂に集まり、様々な議題について話し合いが行われます。このこども国会、フランスやイギリス・ポルトガルなどでも行われているのですが、ヨーロッパで一番最初に実現させたのは実はポーランドなんです。 ちなみにポーランドのこども達は、この日の他にもクリスマス・誕生日・イスターに必ずプレゼントを貰えます。日本のこどもからするととてもうらやましい習慣ですが、ポーランドの親御さんたちは大変だろうなとも思います。 写真mlodyelblag.plはのものです。 関連記事 / Related posts: Dzień Dziecka (Kodomo no Hi こどもの日) 教師の日 (Dzień Nauczyciela) – ポーランドの祝祭日 祖父の日(Dzień Dziadka) – ポーランドの祝祭日 男性の日 (Dzień Mężczyzn) – ポーランドの祝祭日 姑の日(Dzień Teściowej) – ポーランドの祝祭日

ポーランドの母の日(Dzień Matki) – ポーランドの祝祭日

5月26日はポーランドの母の日です。ポーランド語ではDzień Matki(ジェン・マトキ)と言います。 この日は日本と同じように、母親に日ごろの感謝の気持ちを伝えます。幼稚園や小学校では母親のために子供達がカードを書いたり工作をしてプレゼントを作ります。お母さん達の前で子どもたちが歌を歌ったり踊ったりすることもあります。 そのほかにはお花やチョコレートなどちょっとしたものをプレゼントするのが一般的です。日本では母の日といえばカーネーションと決まっていますが、こちらでは特にそのような決まりはありません。母親に会える距離に住んでいる人は、ほとんどの場合この日は実家に帰って直接母親にプレゼントを渡しますが、離れて暮らしている場合は電話で感謝の気持ちを伝えます。 ちなみに6月1日はこどもの日、6月23日は父の日です! (写真はmaslow.info.plのものです) 関連記事 / Related posts: 男性の日 (Dzień Mężczyzn) – ポーランドの祝祭日 祖父の日(Dzień Dziadka) – ポーランドの祝祭日 女性の日 (Dzień Kobiet) – ポーランドの祝祭日 姑の日(Dzień Teściowej) – ポーランドの祝祭日 男の子の日 (Dzień Chłopaka) – ポーランドの祝祭日

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (Wisława Szymborska)

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (Wisława Szymborska)はポーランドの詩人・エッセイスト・評論家・翻訳家・ノーベル文学賞受賞者です。 シンボルスカは1923年7月2日現在はクルニクの一部となっているプロヴェントという町で政治家の父ヴィンツェンティと母マリアの次女として生まれました。1929年クラクフへ引越し、第2次世界大戦中は地下学校で教育を受け、1943年からは鉄道員として働いたことでドイツ帝国への強制労働送りを免れました。この頃英語の教科書に挿絵を書いていたと同時に詩を書き始め、1945年クラクフの文学界に登場、翌年ヤギエウォ大学ポーランド学科に入学(途中で社会学に転向)しましたが、経済的な理由から退学します。 1948年詩人のアダム・ヴウォデクと結婚(54年に離婚)。1949年に最初の詩集を刊行する予定だったものの「社会主義の必要条件を満たさない」という理由で検閲に通らず出版されませんでした。とは言うもののポーランドの他の知識人たちと同じようにシンボルスカも社会主義政府のイデオロギーに賛成していましたが、次第に社会主義イデオロギーに興味を失い、のちには反体制側にまわります。1967年からは詩人のコルネル・フィリポヴィッチがパートナーでしたが、結婚することはありませんでした。 1996年にノーベル文学賞を受賞。2010年の大統領選挙の際はブロニスワフ・コモロフスキ氏の後援会員をつとめました。 2012年2月1日クラクフの自宅で眠っている間に死去。遺体はクラクフのラコヴィエツキ墓地に安置されています。 代表作には「自問」(“Pytania zadawane sobie”: 1954)、「塩」(“Sol”: 1962)、「万一」(”Wszelki wypadek”: 1972)、「大きな数字」(”Wielka liczba”: 1976)、「終わりと始まり」(”Koniec i początek”: 1993)があります。 関連記事 / Related posts: ポーランドのノーベル賞受賞者 クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski) ルドヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof) レフ・ヴァウェンサ (Lech Wałęsa) オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk)