ポーランドの文化論

ポーランドは西欧文化圏に属する。そして、ポーランドの文化レベルは相当に高い。9年制の義務教育が行き渡り、文盲率は極めて低い。高等教育も長い伝統を持つ。クラクフのヤギェウォ大学は1364年創立と、中欧ではプラハのカレル大学に次いで2番目に古い大学で、コペルニクスもここで学んだ。

ポーランド人は自国の文化を誇りにしている。しかし同時に外国の文化への関心も高い。日本に関して言えば、ワルシャワ大学とクラクフ大学が日本学科を設置しているほか、日本語を教えている大学が何カ所かある。テレビのクイズ番組で「日本の先代の天皇の名は?」「第2次大戦後長く米軍の占領下にあり、今も基地が多い日本の島は?」といった問題が出され、出場者が難なく答える姿が見られるし、柔道、剣道、空手にはげむポーランド人は少なくない(柔道ではオリンピックの金メダリストも何人か出ている)。オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)がある国ゆえにヒロシマはほとんど常識であり、近年は「カローシ」(過労死)まで知られるに至った。

民主化後は、外国旅行や外国でのアルバイトも増えている。なにしろ陸続きのヨーロッパ、高速バスや列車で簡単に国境を越えられる。ビジネスマンなら、飛行機でロンドンへ日帰りの商談に出かけもする。国際感覚という点では、島国日本は太刀打ちしがたい。新しいものを取り入れる意欲や企業家精神が旺盛なのも、民主化後のポーランド人のひとつの特徴であろう。

文化を生み、支える重要な要素に、宗教がある。寛容の精神は13世紀にユダヤ教徒を受け入れ、プロテスタント勃興の時代にもカトリック信者とのあいだに大衝突を経験しなかった。ポーランド国民の90%以上がカトリック信者とされる。小説や映画でも、神と悪魔、キリスト教倫理と人間の葛藤などが、主題として、またモチーフとしてしばしば描かれる。政治・社会的には、共産主義という重しがのしかかっていた時代、教会は体制の支配に抗する勢力として、国民の心の拠り所であった。民主化の後は、重しが取れたことと、教会側の右寄りな発言が目立ち始めたなどから、権威にいささかの翳りが兆した。とはいえ、カトリックの信仰は民衆の生活に深く根づいており、クリスマスや復活祭をはじめとする様々なキリスト教の行事は、日本の盆と正月のように生活の一部で、旧政権でさえ尊重した。その意味でポーランドは間違いなくヨーロッパ文化圏の一部をなす。

「乙女の祈り」という世界じゅうに知られた可憐でポピュラーな曲がある。1856年にできたこのメロディーの作曲者がワルシャワ生まれの女性テクラ・ボンダジェフスカと知る人は少ない。「タンゴ・ミロンガ」は南米の曲ではない。同じくワルシャワに生まれ、20年足らず前に死んだペテルスブルスキと名乗るポーランド系ユダヤ人だ。次に文学。1996年度のノーベル文学賞をポーランドの女流詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカが受賞したのは記憶に新しい。ある程度の年代の方なら名作『クォ・ヴァディス』のシェンキェヴィチをご存じだ。この両者の他に長編小説農民レイモントと一方、SFファンならば、『ソラリスの陽のもとに』のスタニスワフ・レム。単なる空想科学小説にない彼の哲学的な深みに国際的人気が高い。他にも優れた作家は多く、作品の邦訳も意外に少なくない。 高い文化水準が一朝一夕に出来上がるはずはない。ポーランドは、バルト海から黒海までの広大な領土を支配した中世以来の、素晴らしい文化伝統を誇っている。ロシア、プロイセン、オーストリアの3国に分割されて地図上からポーランドの名が消えた時代にも、この地から詩人ミツキェヴィチ、作曲家ショパン、科学者キュリー夫人らが生まれた。このショパンとキュリー夫人にコペルニクス、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世、ワレサ前大統領を加えた5人が、日本で最も著名なポーランド人というところだろう。もっとも、彼らがポーランド人と知らない人も多いかもしれない。以下、文化・芸術の分野で日本人になじみのあるポーランドの名前を紹介しよう。

 

 

認識度では映画の方がはるかに上で、ポーランドといえば映画を思い浮かべる人が多い。『灰とダイヤモンド』などで有名なアンジェイ・ワイダ監督は日本との関わりが特に深く、坂東玉三郎を主演に舞台と映画で『ナスターシャ』という作品をものしている。古都クラクフに数年前オープンした日本文化・技術センターは、ワイダ監督が京都賞で得た賞金をもとに、内外からの寄付を募って完成させた日?ポ両国の架け橋である。他に、オールドファンにはカヴァレロヴィチ、最近の監督では96年に急逝した『トリコロール3部作』のキェシロフスキ、アグネシュカ・ホラント、ザヌーシなどが知られている。アメリカに渡ったロマン・ポランスキも、ポーランド出身である。演劇ではタデウシュ・カントルが高い評価を受けていた。

再び音楽に戻る。さすがショパンの国、古くは首相も務めたパデレフスキ、新しいところではツィメルマンと、ピアニストに人材が多い。5年に1度ワルシャワで開かれるショパン・コンクールからは、上述のツィメルマンをはじめ多くの世界的演奏家が世に出た。日本人ピアニストが多数参加し、客席にも日本人が目立つ「日本人好みのコンクール」としても知られる。ヴァイオリンのヴィェニァフスキ・コンクール(開催地ポズナン)も権威が高い。作曲家では、現代音楽のペンデレツキ、ひところ「交響曲第3番」がブームになったグレツキらがあげられる。

絵画では、日本まで名の聞こえた画家はいないものの、グラフィック、特にポスター美術の独創性で世界的に知られており、日本の中学校用美術教科書に何度もポーランド人の作品が取り上げられている。

学問の世界では、文化人類学者のマリノフスキ、樺太アイヌの研究家ブロニスワフ・ピウスツキ(大戦間期の元首ユゼフ・ピウスツキの兄)、ビタミンの命名者フンク、数学者バナッハらがいる。

これら「日本での著名人」の背後には、わが国では知られていないが優れた業績をあげた人々が数多く控えている。そして、いわゆる「業績」とは無縁ながら、歴史と伝統と文化を守ってきたあまたの無名の庶民がいる。戦争で瓦礫の山と化したワルシャワ旧市街を元通りに復元した市民たち。古い建物を再建し、保存し、修復して使い続ける人々。目に見えるものだけが文化ではない。国民の魂にこそ文化は宿る。

武井摩利(2006年)

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