現在、トヨタをはじめ、世界の列強の工場が集中するポーランドですが、残念ながらポーランドの国産車メーカーはありません。でも、つい一昔前までは、国産車もありました。年代順に見ていってみましょう。
終戦直後にフィアット1400のライセンス生産が計画されていました。この計画ではポーランドの石炭とのバーター取引によるものでしたが、冷戦の開始とマーシャルプランによる米国の安価な石炭がイタリアに入ってきたため、頓挫してしまいます。「資本主義国と取引するとは何事か!」とスターリンから横槍が入ったとも言われています。
そこでソ連製の Pobiedy M-20、ポーランド名「ワルシャワ(Warszawa)」をライセンス生産することになったのです。1951年11月、国産第1号車が完成しました。しかし、ほとんどの部品と組み立てはソ連で行われたため、本当の意味で国産と言うまでにはその後数年を要しました。「ワルシャワ」は数度のモデルチェンジを行い、1973年までに25万台を生産しました。東欧諸国や中国などの共産圏にも輸出されたそうです。
1957年になると完全な国産車である「シレナ(Syrena)」が登場し、1983年まで生産されました。何度かのモデルチェンジがありましたが、総生産台数は52万でした。また、60年代に入ると、近代的な乗用車の生産を目指し、ルノー(フランス)やフィアット(イタリア)とのラインセンス生産の交渉を始めます。その結果、1967年に「ポーランド・フィアット125p(Polski Fiat 125p)」が誕生します。1983年にはフィアットとの契約期間が切れたため、単に「FSO 125p」と改名されました。俗称は下記に登場する126pと対比させ「大きいフィアット(Duzy Fiat)」と呼ばれていました。
1973年からは排気量600ccクラスの「ポーランド・フィアット126p」も生産を開始します。その後126pは2000年まで331万台生産され、ポーランドで最もポピュラーなモデルとなりました。ちなみにご本家イタリアでは135万台しか生産されませんでした。ポーランド人たちは、小型車である126pを揶揄ってチビや赤ちゃんを意味する「マルフ(Maluch)」と俗称で呼んでいましたが、1997年には正式名称になってしまいました。
1978年にはフィアット125Pの次世代バージョンとして「ポロネーズ(Polonez)」が登場します。排気量1600-2000ccのこの車も比較的ポピュラーで、民主化以降の2002年まで生産されましたが、70年代、80年代の経済状況の悪化もあり、総生産数は100万台に留まっています。ちなみにポロネーズの名称はジチェ・ワルシャーヴィ(Zycie Warszawy)」という新聞で募集されたものだそうです。
社会主義が崩壊すると国営企業は経営難を目のあたりにします。1991年に125pの生産が停止されると、ワルシャワの工場ではGMとの提携によりオペル・アストラの組み立てが行われるようになりました。その後民営化により、韓国のデーウー(DAEWOO)社の資本が入り、 Daewoo-FSOという会社が誕生します。ここでは2002年までポロネーズの生産が続けられましたが、デーウー社がGMに買収されてからは、旧デーウー車種(現在はシボレー車種)の生産や組立を行い、ポーランド国産車の生産は完全に停止されてしまいました。
現在、これらポーランド車を公道で見ることはまずありません。しかし、一部のマニアやコレクターによるイベントには多くの人が集まり、昔を懐かしんでいます。