ヨハネ・パウロ2世(ポーランド語ではヤン・パヴェウ・ドゥルギィ – Jan Paweł II)はポーランド出身の第264代ローマ教皇です。(在位:1978年10月16日‐2005年4月2日)
史上初のスラヴ人教皇であるヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ‐ Karol Józef Wojtyła)は、1920年5月18日、ポーランドのヴァドヴィツェ(Wadowice)で父カロル・母エミリアの次男として生まれました。8歳のとき母を、11歳のとき兄をなくし、父の手で育てられました。その後クラクフのヤギウェオ大学に入学しポーランド文学を専攻。1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって大学が閉鎖、さらには翌年父が他界。生活のために肉体労働に従事しながら、勉学と演劇活動に打ち込みます。この間に聖職者への志が芽生えましたが、公式には神学校の運営が禁止されていたために非合法の地下新学校へ入学。1946年11月11日に司祭に叙階されました。同年、ローマのアンジェリクム神学大学に送られ、1948年に神学博士号を取得。その後帰国し、クラクフの教区司祭として勤めました。その後、ルブリン・カトリック大学やクラクフ・カトヴィツェなどの神学校で倫理神学を教え、1958年にはクラクフ教区の補佐司教に、1964年にクラクフ教区の大司教に、そして1967年には枢機卿に新任されました。
1978年、当時の教皇パウロ6世の死去に伴い新教皇に選出するためのコンクラーヴェに参加。選出されたのは当時65歳のヨハネ・パウロ1世でしたが、在位33日にして教皇が死去してしまったため、同年10月に再びコンクラーヴェが行われた結果、第264代目の教皇として選出され、ヨハネ・パウロ2世と名乗りました。
教皇登位後は、最初の訪問国であるメキシコを初めとして、2003年の最後の訪問国であるスロバキアまで100カ国以上を訪問し、「空飛ぶ教皇」と呼ばれました。民族や宗教・国を越えた対話を目指し、各国のリーダーや政治家、宗教関係者との会見も積極的に行いました。また、すべての命と人権の擁護、戦争や暴力に反対するなど、平和への活動にも取り組みました。国民の90%以上がカトリック信者だった社会主義時代のポーランドでは、教皇の存在が国民の精神的な支えとなり、後の民主化に大きな影響を与えたと言われています。
2005年2月からインフルエンザによる喉頭炎で入退院を繰り返し、4月2日に逝去。教皇逝去の知らせを受け、世界中から500万人がバチカンに集まったといわれています。
ヨハネ・パウロ2世は2011年5月11日に列福、2014年4月27日に列聖されました。