ショパンゆかりの場所 ワルシャワ編・その2

ポーランド人の誇りである作曲家、フレデリック・ショパンはワルシャワで育ちました。彼が住んでいた場所はどこでしょうか?ショパンゆかりの地、その2です!

grobnieznanegozolnierza サスキ宮殿 ワルシャワ立憲王国時代だった1810年、フレデリックの父がこのサスキ宮殿の一角にあったワルシャワ高等学校の仕事を得たため、ショパン一家はジェラゾヴァ・ヴォラからここへ引っ越してきました1817年サスキ宮殿は軍の所有となったためショパン一家はここを去り、ワルシャワ高等学校は移転しました。この宮殿は1944年にドイツ軍によって破壊され、現在は無名戦士の墓の上にある列柱だけが残っています。
palac kazimierzowski カジミエシュ宮殿 1817年、この宮殿にワルシャワ高等学校と王立ワルシャワ大学が開設されたため、ショパン一家はここへ引っ越して来ました。現在ワルシャワ大学の学長事務所が置かれており、すぐ正面にある東洋学科の建物にはショパンのポートレートと「1817-1827年この建物にフレデリック・ショパンが住んでいた」と記されているプレートが掲げられています。
palac radziwillowski ラジヴィウ宮殿 1818年2月24日、フレデリック・ショパン自身にとって初めての公式演奏会となる、ワルシャワ慈善協会のコンサートに出演した場所。現在は大統領官邸。
palac czapskich krasinskich チャプスキ・クラシンスキ宮殿 1927年よりショパン一家が住んでいた場所。ここでショパンは生まれて初めて自分だけの部屋を与えられました。現在この建物にはワルシャワ美術アカデミーが置かれています。ショパン一家が住んでいた一角は“ショパンのサロン”となっており、見学することが出来ます。
poczta saska サスキ郵便局 1930年ショパンはこの場所から馬車に乗ってパリへと旅立ちました。現在は郵便局ではなく、検察庁が置かれています。
koscio sw krzyza 聖十字架教会 ショパン一家が通っていた教会。ショパンの死後、姉のルドヴィカは遺言通りショパンの心臓をポーランドに持ち帰りましたが、ロシア政府の反応を恐れて当初はルドヴィカの家に隠された後聖十字架教会のカタコンベに移され、その後1878年、フレデリックの甥であるアントニ・イエンジェイェヴィチによって柱の中に安置され、その2年後には胸像で飾られたプレートが作られました。第2次世界大戦中に起きたワルシャワ蜂起の際、ドイツ軍はショパンの心臓の入った壷を持ち出し、ワルシャワの司教に委ねました。司教はそれを郊外にあるミラヌヴェクという村に隠し、ショパンの没後96年に当たる1945年10月17日、元あった場所に戻されました。