<プロローグ>
目を覚ますと、四方の殺風景なベージュ色の壁が目に映った。その一つの面に朝日が射し、反射した光が醒めたばかりの目を痛く刺激した。
足元を見れば、昨夜まで寝ていた学生寮の木製のベットの代わりに、冷たいスチール製のベットの枠が有った。
少しづつ意識が戻りはじめると共に、昨日起きた出来事が頭の中でもう一度蘇りはじめた。
「そうだ、やはり夢ではなかったんだ。」と大きく一つため息を付いた。
ポーランド、ワルシャワ、1974年7月14日、朝6時半、こうしてその後2ヶ月半に及ぶ私のポーランドでの闘病生活が始まった。
当時、東京に在る私大の大学院で、将来は大学に残るつもりで機械工学を学んでいた私は、ひょんな事からポーランド国立科学アカデミー、基礎工学研究所で弾性学の研究をさせて貰える事になった。往復の飛行機代自分持ち、生活費一切は向こう持ちという条件だった。
高校生の時に、小田誠のベストセラー「何でも見てやろう。」を読んで以来、「いつか必ずヨーロッパで暮らすんだ。」と固く決心したが、それが遂に実現したのだった。
羽田国際空港からエールフランスのジェット機に乗り、初めて間直に見る金髪の外人女性(スチュワーデスさん)に胸をどきどきさせたりするうちにパリへ着いた。ワルシャワ行きの列車が出るパリ北駅へやって来た時、ポーランドの科学者、キューリー夫人の事を想った。彼女はパリで学んでいる間、寂しくなるとこのパリ北駅を訪れ、故国へ帰る列車を眺めては、望郷の念に駆られていたとの事だった。
初めての外国、それも一人旅で心細かった私は、そんな彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。
昼の3時過ぎに列車はパリ北駅を離れ、翌日の夕方に、ワルシャワの北の外れに在るグダインスク駅へと着いた。国際列車の止まる駅だというのに人もまばらで、駅周辺にはろくな建物すら無く、つい昨日まで見ていた、パリの眩しいばかりの華やかさとは正反対の、物悲しくうらぶれた風景が一面に広がっていた。正に「ポーランド哀歌」その物の世界が眼前に在った。それが初めて見たポーランドの第一印象であった。
研究所での時間はあっという間に過ぎていった。日本とは違い、毎日きちりと5時には終わり、その後は同じ研究室の人たちが、入れ替わり立ち代わりでワルシャワの町を案内してくれた。毎日、しとしとと雨の降る中を、旧市街(スターレミアスト)、教会、博物館、ゲットーと僅かな時間も惜しむ様にあっちへこっちへと歩き回った。
それがいけなかったのだろう、ワルシャワへ着いてから3週間目の朝、いつもの様に学生寮の前を出て、数十メートルも歩かないうちに、左足の付け根が段々と重くなった。
そして遂には足全体が硬直して動けなくなり、あまりの激痛の為、その場にしゃがみこんでしまった。周りにいた親切な人たちが呼んでくれた救急車に乗せられ、病院へ連れて行かれて即入院となった。研究所へも直ぐに知らせが行き、研究を手伝ってくれていたドクタ?が駆けつけて来て、診断結果を通訳してくれたので、少しは気持ちも落ち着いた。
持病のギックリ腰をこじらせた座骨神経痛というのが私の病名であった。「もしかしたらこのまま一生、左足が動かなくなってしまうのでは。」と心配したが、どうやら直りそうな病気なのでとりあえずはホッとした。
重くなった左足は無理に動かそうとすると、下半身全体に激痛が走り、それこそ一歩踏み出す毎に脂汗が落ちるという状態であった。そんな訳で、トイレの正面に在る2人部屋の病室に入れて貰った。
もう一つのベットには既に先客がいるらしかったが、私が部屋に入ったときは留守であった。付き添ってくれた看護婦さんの一人と研究所のドクタ?が何かを話していたが、その彼がニコニコしながら私にこう言った。「マコト、君は本当にラッキーだ。女子大生と同室だ!」
「まさか、いくら外国でもそんな(素敵な)事が有るはずが無い。しかし、待てよ、もしかしたら、もしかなのかな――――?!」
看護婦さんたちも皆去り、ドクターも帰ってしまってから、足の痛みも忘れ、私はひたすら先ほどの彼の言葉を反復していた。
私の目はいつ何時開くかもしれない部屋のドアに釘付けになっていた。
「ドアが開き、ジーナ・ロロブリジータそっくりで美人の(もうすっかりそう決め込んでいた)女学生が入って来たら、なんて挨拶したらいいんだろう。英語が通じるのだろうか。この先どんな事になるんだろう。」
私の頭は完全に幸福な混乱状態となっていた。
とてつも無く長い時間が過ぎ、遂にドアがゆっくりと開けられた。開いたドアから白い顎鬚を生やした老人が静かに入って来た。
「図られたか!」と私は思い、それまでの緊張がいっぺんに解けるのを感じた。
後で聞いた話によれば、あまりにも心配して憔悴しきった私の気持ちを解そうと、看護婦さんの一人が気を利かせた、という事であった。確かにそのお陰で痛みも不安も完全に忘れ、色々な思いを巡らせて幸せな一時を過ごせたのは事実だった。
ダヌーシャというその看護婦さんは、私よりも年上で当時は29歳。その後結婚し男の子を産んだものの、直ぐに御主人を交通事故で亡くして悲嘆と途方に暮れている、という消息を日本で聞いた。
その息子ももう成人して働いており、今では孫に囲まれて元気で暮している。苦労ばかりだった彼女の人生もようやく報われる時が来た。
治療は毎朝訪れる医師の問診と、お尻に打つビタミン注射であった。これは無痛処理をしていない為、注射の後数分間は、後を引く痛みと七転八倒しながら格闘しなければならなかった。普通ならば、妙齢の看護婦さんたちにパンツを引き摺り降ろされ、お尻を丸出しにされて注射を打たれるなど、恥ずかしくて堪らないのだが、そんなことが問題にならない程に、この注射の痛みは強烈だった。
問診の方は担当の医師が言葉が通じない為、しばらくしてから、同じ病院に入院していたベトナム人の留学生が毎回同席し、通訳をしてくれるようになった。イン ジャオという名の彼はその後ポーランドで学位を取り、故郷へ帰ったという話を聞いた。
生憎連絡は途絶えてしまったが、戦争(ベトナム戦争)の後、元気で生きていれば、かの国にとって無くてはならない人材の一人になっているはずだ。
入院後2週間ほどで、松葉杖を使いながらも、どうにかこうにか前に少しづつ進めるようになった私は、理学療養を受ける為に下の階に在る療養室へと通いだした。途中に在る長い廊下や他の病室の前を通るので、そこにいる人たちとも片言の挨拶を交わす内に、すっかり打ち解け、病室毎に引き止められて話をするので、なかなか目指す療養室へはたど
り着けなくなってしまった。
日本人を見るのは初めてという人が多く、毎回日本について色々な質問をされたが、驚いたことにどの人も日本に関し、かなり的確な知識を持っていた。
そうした「廊下の友人たち」の中には、顎鬚など生やしていない本物の女子学生も沢山いて、その娘さんたちは毎回決まってチョコレートやお菓子をくれるので、私のガウンの両ポケットはそうしたお菓子の差し入れでいつもはちきれそうになった。生まれてこのかた、女性にプレゼントは多々しても、貰うことなど一度もなかったので、あまりの幸運に、 「このままずっとここにいたい!」とまで思った。
貰ったお菓子は一人では食べ切れず、先ほどのベトナム人の友人や、同部屋のお祖父さんなどへ配っていた。
この事については後で私の弟がこんな風にコメントした。
「兄貴、それはモテたんじゃないよ。動物園のパンダがえさを貰うのと同じだよ。要するにただ珍しかったんだよ、病気の日本人が。」
私が毎日通っていた理学療養室には私の母と同年配位の御婦人が責任者をしていた。彼女は若い頃から日本という国に憧れていたそうで、自分の机の直ぐ後ろにはどこから手に入れたのか、浅丘ルリ子のカレンダーが掛けられていた。
そんな次第で私たちは初日からすっかり意気投合し、お互いに下手なドイツ語を使って、色々な事を話した。彼女はザビットコフスカ夫人といい、現在はロシアに併合されてしまった旧ポーランド領に在る、人口6千人位の村で領主の娘として生まれ、戦争が終わってからは進駐してきたソ連軍に故郷を追われ、ワルシャワへ移り住んだとの事だった。
その後、機械技師のご主人と結婚したが、スターリン時代の粛正に巻き込まれてご主人は獄死し、自分の母親と、ワルシャワ工科大学を卒業して電気技師となった一人息子との3人で暮らしていた。
30分程で終わる治療の後は、毎回手作りのケーキやお菓子でもてなしてくれるので、短くて1時間、長い時には2時間以上を彼女の療養室で過ごした。そして、病飲食は不味いからと言って、お菓子が手の込んだお弁当に代わるのもしばしばであった。
また、早く直るようにと、日曜日もわざわざ来てくれて治療をしてくれた。
そして8月6日が来た。
この日も私は彼女の療養室を訪れたが、いつもとは違い、沈みきっているザビットクフスカ夫人を見た。
「家族に何か有ったのかな?」などと考えながらも、訳を尋ねるのをためらっていると、しばらくしてから彼女がポツリと言った。
「マコト、今日はとても悲しい日です。私たちはこの日を決して忘れることは出来ません。広島で死んでいった沢山の人たちの事を想うと、悲しくてなりません。」
「そうだ、今日は8月6日、広島に原子爆弾が落とされた日だ。」頭のてっぺんから爪先まで体全体を、言葉ではとても言い表せない衝撃が走った。遠い異国で病に倒れた外国人に親切の限りを尽くしてくれるポーランドの人たちの顔が彼女の顔の上に次々と重なって見えた。
「一体どうした事だ、こんなに優しくして貰ったら、この人たち、ポーランド人、ポーランドの国を2度と忘れられなくなってしまうじゃないか。こんな事って有るのか。」
自分のこれからの人生がこの瞬間、ポーランドとは切っても切れない物になったという運命を感じ、その大きな感動をじっと受け止めながら、その日は治療室で初めての、静かな長い時間を過ごした。
彼女はその後定年でいったん仕事を止めたが、共産党政権が崩壊して、連帯の世の中になった時、請われて、政府関係者用のクリニックで理学療養室を任された。かのワレサ旧大統領も彼女の患者さんとなった。
当時のワレサ大統領が、往年の私のように彼女の治療を受けながら、世間話をしていたかと、思うだけで楽しくなる。
彼女は今でも私を「もう一人の息子」と呼び、自分の部屋の壁に自分の孫たちの写真といっしょに、私の娘たちの写真を飾ってくれている。
これまでの話で、重要な人物が一人欠けている。
入院した初日に最初に私に注射をした看護婦さんがいた。日本人より小柄で、看護婦になったばかりという感じで初々しく、耳の前に垂れた大きな巻き毛がとても可愛らしかった。
松葉杖無しでも何とか歩ける位に回復した私は、研究を中断して帰国したが、彼女の事がどうにも忘れられなかった。帰り際に急いで買ったポーランド語の本を頼りに独学でポーランド語の勉強を始め、1週間に1度、その後2年間に渡って彼女に手紙を書き続けた。その努力(しつこさとも言います)が実を結び、2年半後に私たちは結婚した。
物心付いてからというもの、ずっと失恋のし通しで、「おまえには恋愛結婚は絶対無理だな。」と決め付けていた父がとても喜んでくれたのを、今では懐かしく思い出す。
その父は私たちの結婚式の直前に直腸癌で倒れ、その後1年半に及ぶ闘病生活の末、生まれたばかりの孫娘の顔を見て直ぐに、帰らぬ人となってしまった。
<エピローグ>
あの運命の1974年8月6日から既に26年の歳月が流れた。
大手電気会社でビデオの研究開発をしていた35歳の時、このままでは生涯の夢、ポーランドで暮すことが実現できないと決意して、海外工場へ行ける可能性のある製造部へ無理やり移籍した。それでも願いがかなえられそうに無かったので、ついには転職までして欧州に移り住んだ。 その後もポーランドの近くに住みつづけたいと云う一心で、総務、購買、管理と次々に専門職種を変え、今は経理屋として生計を立て始めている。弾性学で博士論文に取り組んでいた昔日の日々が夢の様である。
そうこうしている内にこのオランダに住んで早や11年が過ぎてしまった。
距離にして1250Kmはあるが、早朝にアムステルダムを出発して車を飛ばせば、その日の夜11時位には、あの想い出深いワルシャワへ着ける。 ”オランダで吸うこの空気はかの地に繋がっている。”と想うだけで、それだけで幸せになれる。
もう何度と無く車を運転してワルシャワへ入ったが、懐かしいワルシャワの、物悲しくうらぶれた佇まいを見る度に、今でも胸に熱いものがジーンと込み上げ、感動で涙ぐんでさえしまう。
私は齢50歳になったが、残りの人生をポーランドの役に立てる様に生きられれば、こんなに幸せな事は無い、としきりに思うこの頃である。
倉部誠