マキシミリアン・コルベ神父 (św. Maksymilian Kolbe)

マキシミリアン・マリア・コルベ(Maksymilian Maria Kolbe)神父(出生名ライムンド・コルベ Rajmund Kolbe)は1894年にポーランドのズドゥンスカ・ヴォラで生まれました。
聖母マリア信仰の強い家庭で育ち、その後コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会、ルヴフ(現在はウクライナのリヴィフ)にあるコンヴェンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学。1911年の初請願の際にマキシミリアンの名前を与えられました。その後ローマに留学、数学・物理学・哲学そして神学を学びました。
1917年6人の仲間とともに「無原罪の聖母の騎士信心会」を設立。クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤めましたが、結核のためその後ザコパネで療養生活をしていました。

1927年にはワルシャワから40キロほどのところにあるテレシンの町にニエポカラヌフ修道院を創立。「無原罪の聖母の騎士」という小冊子を発行して宣教に力を入れました。

当初は中国での布教活動を考えていたコルベ神父ですが、政情の不安定さを心配した友人の提案で上海を経て日本に向かうことになります。1930年4月長崎に上陸したコルベ神父は、翌月には大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を開始、「無原罪の聖母の騎士」日本語版を一万部発行しました。翌年には聖母の騎士修道院を設立。、聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。また、大浦神学校では教授として生徒達に哲学を教えていました。

kolbe3

執筆中のコルベ神父

1936年、ニエポカラヌフ修道院の院長に選ばれたためポーランドに帰国。ラジオや出版物を通して更なる布教活動に専念しました。

第2次世界大戦が始まると修道院はドイツ軍によって荒らされ、修道士達も逮捕されました。一度は釈放されたもののまた逮捕されたコルベ神父はまずワルシャワのパヴィアック収容所へ、その後アウシュヴィッツ強制収容所へ送られました。

1941年7月、収容所から脱走者が出ました。脱走者が見つからないと、連帯責任として無作為に選ばれる10人が死刑に処せられることになっていました。死刑囚を選別している最中、不幸にも選出されてしまったフランチシェック・ガヨヴニチェク(Franciszek Gajowniczek)というポーランド人軍曹が突然「私には妻子がいる」といいながら泣き崩れました。その時そこにいたコルベ神父は静かに列の前に出て、「私は妻子あるこの人の身代わりになりたい」と所長に申し出ました。今までそんな言葉を聞いたこともなかった所長は驚いたものの、それを許可し、コルベ神父は9人の囚人とともに餓死牢へ連行されていきました。

この餓死牢は「死の地下室」と呼ばれ、パンも水も与えられず、ほとんどの囚人は叫び、呻きながら半狂乱になって死んでいきました。しかしコルベ神父が餓死牢に入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえてきました。他の囚人たちもみな一緒に歌っていました。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィエツ(Bruno Borgowiec)氏は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言しています。

牢に入れられてから2週間後の8月14日、当局はコルベ神父を含めたまだ生き残っていた4人に毒物を注射して殺害しました。注射をされるとき、コルベ神父は祈りながら自ら進んで手を差し出したそうです。通訳のボルゴヴィエツ氏はいたたまれなくなり、口実をもうけてその場から逃げ出しました。少し時間が経ってからコルベ神父のもとへ行ってみると、「神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていた。その顔は穏やかで、美しく輝いていた」そうです。

コルベ神父は1971年10月10日にパウロ6世によって列福され、1982年10月10日にポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。列福式および列聖式の場にはガヨヴニチェック氏の姿もありました。ガヨヴニチェック氏はその後ザクセンハウゼン収容所に送られたものの奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、亡くなるまでずっとコルベ神父に関する講演を世界各地で続けました。1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベ神父の像が飾られました。