ポーランドの歴史・後編

第三共和制

ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領1989-90

戒厳令:1981年12月
共産党政権は崩壊の危機に直面、ソ連の軍事介入が危惧された。1981年秋から党・政府・軍の実権を握っていたヤルゼルスキ将軍は12月13日、戒厳令を布告、軍事政権は多数の活動家を「抑留」するなど「連帯」の弾圧に乗り出す。戒厳令布告直後、「連帯」に賛同する女性有志らが「ゼノ修道士記念ポーランド人を助ける会」を組織し、3千5百万円以上の義援をカトリック教会などを通しポーランドに送った。また「ポーランド資料センター」が発足、布告直前から「ポーランド月報」(102号まで)を発行(91年7月まで)。

社会主義体制の崩壊:1989年
軍事政権は「連帯」運動の解体に成功せず、地下の抵抗闘争が、却って政権を孤立に追い込む。1988年の春から夏、ふたたび値上げ抗議の大規模なストライキ闘争が展開されると、ヤルゼルスキ政権は無力をさらけた。「連帯」は復権を獲得、翌89年春の円卓会議において「自由選挙」が政権と「連帯」間に合意を見た。選挙では「連帯」勢力が圧勝し、ここにポーランドの共産党政権は最終的に崩壊する。つづいてほかの東欧諸国、そしてソ連でも共産主義体制は崩壊した。

レフ・ワレサ大統領1990-95
独立自治労働組合「連帯」の登場:1980年
1980年夏、グダンスクのレーニン造船所などで始まった食料値上げ抗議の全国ストに立った労働者は、独立自治労働組合「連帯」の結成を勝ち取った(グダンスク協定)。独立自治とは、共産党=政府の支配を受けないという意味である。これは、ソ連型共産主義の根本原理の否定であった。労働者の大半が年末までに「連帯」に加盟、その網の目はさらに大学教授、教師、芸術家、医師、ジャーナリスト、職人、農民、学生にまで拡大していった。1981年9月には一千万人に及ぶ組合員が「連帯」に加わり、ポーランド社会全体が党支配の及ばない構造に組織され、その勢いを前に政権はたじたじとなった。「連帯」運動は全世界の注視を集めた。日本も例外でなく、労働組合組織の招きでワレサ委員長の来日が実現(1981年5月)、列島に湧く「ワレサ・フィーバー」にワレサ委員長は「ポーランドを第2の日本にしたい」と応じた。民主政権の初代首相、マゾヴィエツキも同行、また通訳として随行のリプシツはのち註日大使、同じく梅田芳穂は日本人ながら大会綱領委員会などで活躍した。
80年、日・ポ間に二重課税防止条約(82年発効)

アレクサンデル・クファシニェフスキ大統領1995- 2005

日本とポーランド】1987年1月中曽根総理訪ポ、87年6月ヤルゼルスキ国家評議会議長訪日
議会制民主主義と市場経済をめざして
中東欧民主化の先陣を切ったポーランドは、以後、議会制民主主義と市場経済体制の確立に全力をあげる。2度の大統領選挙と3度の総選挙を経て政権の担い手はワレサ大統領/「連帯」勢力からクファシニェフスキ大統領/民主左翼連合・農民党へと替わった。議会制民主主義と市場経済体制の確立という基本路線の変更はなかった。
1990年1月、海部首相が新体制のポーランドを訪問、マゾヴィェツキ首相らと会談。
1994年12月、ワレサ大統領が来日。村山首相はポーランドの改革支援と経済協力の強化を約束した。
1994年、航空協定(96年発効)、外交公用旅券保有者の相互査証免除取決め(94年発効)、91年6月ビエレツキ首相訪日、高円宮訪問。ワイダ監督の寄付、日本民間の援助によりクラクフに「日本文化技術センター」設立(94年11月)

このように1千年余りに及ぶポーランドの歴史は、日本に比べれば時間的に短いとはいえ、たいへんに起伏に富んでいる。今日のポーランドがこのような過去の犠牲と遺産のうえに立っているのだということは、この国で暮らすうえで覚えておいてよいことだと思うし、四方を海に囲まれ、太平洋戦争後の米軍の占領を除けば独立を失ったことのない私たち日本人にとって、この国の人々の経験は実に多くのことを語りかけているのではないだろうか。