ポーランドの出身のローマ法王、ヨハネ・パウロ2世は2005年4月2日21時37分(日本時間:3日午前4時37分)、敗血性ショックの為に逝去した。法王の最後の言葉は「アーメン」だったと報道されている。享年84だった。 全ポーランドの教会及び法王ゆかりの地では、ヨハネ・パウロ2世の回復を祈るミサなどが行われ、テレビ、ラジオ、インターネットでは法王の安否を伝える情報一色に染まった。特に4月1日(金)の夜以降は、教会やテレビの前でバチカンからの公式発表に釘付けになる状態が続いた。 4月2日(土)21時37分、全ポーランドの教会からは鐘が鳴り響き、住民たちは窓際で蝋燭を灯した。首都ワルシャワでは聖アンナ教会(王宮広場前)、クラクフでは司教宮殿前(法王が司教時代に住んでいた場所で、法王時代にクラクフを訪れるとここに宿泊した)、また法王生誕の地であるヴァドヴィツェ(クラクフ郊外)などで追悼ミサが行われ、法王の冥福を祈った。蝋燭は一晩中灯り続けた。同夜、クファシニェフスキ大統領は異例の記者会見を開き、法王の葬式の日までポーランドの喪期とすると発表した。更にベルカ首相は法王の葬式日を臨時休日にするよう呼びかけた。これを受けて、劇場、コンサート・ホール、各種イベント等がキャンセルされ、4月3日にもスーパー、小売店が臨時休業した。 法王逝去翌日の4月3日には、ワルシャワのピウツスキ広場に10万人、4月4日には20万人が集った。クラクフではブオーニャ公園、ワギェヴニキなどに多くの人々が集まった。公的機関から民家まで、半旗や黒帯を掲げ喪に服した。 4月5日からは法王に最後の別れを告げるポーランド人たちがローマに向かい、特別列車、チャーター機が飛ばされた。ローマに訪れたポーランド人は約200万人に上った。このためローマに向かう高速道路(オーストリアやイタリア)は大渋滞を招いたほどだった。 またポーランド国内では、新しく生まれる赤ちゃんに法王の本名である「カロル」やヨハネ・パウロのポーランド語読みである「ヤン・パヴェウ」という名前を付ける両親が増えている。女の子の場合でも「カロル」に極めて似ている「カロリーナ」という名前を付ける両親もいるという。 現在、法王の記念碑をはじめ、新規祭日などを設けるという案件もあり、ヨハネ・パウロ2世=カロル・ヴォイティワは、いつまでもポーランドとポーランド人たちの中で生き続けるであろう。 (写真はwyborcza.plのものです) 関連記事 / Related posts: ヨハネ・パウロ2世列聖 ヨハネ・パウロ2世 (Jan Paweł II)