1939年9月1日早朝、ドイツ軍がポーランドに侵攻。これを受けて9月3日にはイギリス・フランスがドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が始まりました。 ドイツ軍はグディニャ、ヘル半島、シロンスク地方南東部、ヴィエルコポルスキ地方、ワルシャワなどのを空爆。一番最初にドイツ軍の攻撃の被害にあったのはヴィエルンという都市であると言われていますが、ポーランドで第2次世界大戦勃発のシンボルとなっているのは、グダンスクの中心部から少し離れたところにあるヴェステルプラッテという岬です。 1939年9月1日早朝の4時45分、ドイツの戦艦シュレスヴィヒ・ホルスタインが、ポーランドの守備部隊が駐屯していた自由都市ダンツィヒ(現在はポーランド領グダンスク)にあるヴェステルプラッテ(Westerplatte)に砲撃を開始しました。この戦艦は1939年8月25日に親善目的の理由でダンツィヒを訪れており、ヴェステルプラッテの近くに停泊していました。 約2600人のドイツ軍に対し、指揮官ヘンリク・スハルスキ少佐含めたポーランド軍はわずか205名。人数の圧倒的差もあり、ドイツ軍が簡単に勝利すると思われたもののポーランド軍も機関銃や野砲などで応戦。しかしドイツ軍による急下降爆撃での被害や水・食料・医療品などが底をつき、9月7日にポーランド軍は降伏せざるを得ませんでした。この7日間でのポーランド側の被害は死者14人・負傷者53人。それに対してドイツ側の死傷者は数百人にのぼると言われています。 現在ヴェステルプラッテは一般開放されており、小さな博物館ほか、当時の建物の跡などが残っているのを見学することが出来ます。緑が多い公園のような場所で、こんな場所で戦闘があったのかととても不思議な気持ちになります。小高い丘の上には巨大な記念碑が立っています。その下の原っぱの一角に”NIGDY WIĘCEJ WOJNY (NO MORE WAR)”とあるのがとても印象的でした。 関連記事 / Related posts: グダンスク (Gdańsk) 古代遺跡ビスクピン (Biskupin) ヨハネ・パウロ2世博物館 (Muzeum Dom Rodzinny Jana Pawła II) 自動車博物館 (Muzeum Motoryzacji i Techniki) 連帯センター (Europejskie Centrum Solidarności)
Japonia wprowadziła mundurki szkolne pod koniec XIX wieku. Obecnie mundurki szkolne są powszechne w publicznych i prywatnych systemach szkolnych. W większości szkół podstawowych uczniowie nie muszą nosić mundurków do szkoły. Tam, gdzie są one wymagane, wielu chłopców nosi białe koszule, krótkie spodnie i czapki. Młodzi chłopcy często ubierają się bardziej formalnie do zdjęci klasowych niż w inne dni roku szkolnego. Dziewczęce mundurki mogą zawierać szarą plisowaną spódnicę i białą bluzkę. Czasami strój marynarza jest używany dla dziewcząt. Jednolite kody mogą się różnić w zależności od sezonu, aby pracować z otoczeniem i okazją. Często chłopcy i dziewczęta noszą jaskrawo kolorowe czapki, aby zapobiec wypadkom drogowym. Normalne jest noszenie mundurków poza terenami […]
トレブリンカ強制収容所はワルシャワから北東に約100km、車で2時間弱のところにあります。ここはナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅を目的とした「ラインハルト作戦」にもとづいて作られた三大絶滅収容所(そのほかにはベウジェツ強制収容所、ソビブル強制収容所)のひとつで、1942年に建設されました。 有刺鉄線が張り巡らされた約17ヘクタールの敷地には30-40人のドイツ人とオーストリア人、100-120人の警備員(そのほとんどがウクライナ人)が駐在していました。 初めてユダヤ人がここに移送されてきたのは1942年7月23日、ワルシャワのユダヤ人ゲットーからでした。それからは毎日のようにここにユダヤ人たちが移送されてきました。彼らのほとんどはポーランド国内に住むユダヤ人でしたが、そのほかにもチェコスロバキア・フランス・ギリシャ・ユーゴスラビア・ソヴィエト連邦・そしてドイツやオーストリアからも移送されてきました。また、ドイツとオーストリアに住んでいたシンティ・ロマ人たちもここへ送られて来ました。ここに送られてきた人たちは到着後数時間の間にガス室で殺害されました。ここで虐殺された人々の数はおよそ80万人にのぼると言われています。 1943年8月2日ユダヤ人特別労務班の反乱が起こり、その混乱に乗じて840人いた収容者のうち約200人が脱出しました。しかし戦後まで生き残った人はわずか100人ほどと言われています。この反乱が起きてから収容所の解体が徐々に始まり、1943年11月には全ての建物が解体され、整地された後はウクライナ系農民のための家を建てましたがその後東部戦線の前に焼き払われました。 上記にあるとおり、この収容所はドイツ軍によって焼却されたので当時のものは現在残っていませんが、この一帯は現在トレブリンカ博物館になっており、移送されてきたユダヤ人たちが降り立ったプラットフォーム跡や鉄道線路跡、数々の慰霊碑などがあり、ここでユダヤ人孤児たちと共に殺害されたヤヌシュ・コルチャックの慰霊碑なども見学することが出来ます。 Muzeum TreblinkaNiemiecki nazistowski obóz zagłady i obóz pracy (1941 – 1944)08-330 Kosów LackiWólka Okrąglik 115tel./fax: +48-25-781-16-58https://muzeumtreblinka.eu/ 写真はtreblinka-muzeum.eu, pikiwiki.orgのものです。 関連記事 / Related posts: 自動車博物館 (Muzeum Motoryzacji i Techniki) 鉄道博物館(Stacja Muzeum) ワルシャワ・ネオンミュージアム (Muzeum Neonów) ポーランドのユダヤ人歴史博物館 POLIN(Muzeum Historii Żydów Polskich POLIN) 石鹸と汚れの歴史博物館 (Muzeum Mydła i Historii Brudu)