「ピアノの詩人」と呼ばれ、世界中の音楽ファンを魅了してやまない作曲家、ショパン。 ポーランド人の誇りであるこの偉大な音楽家、フレデリック・フランチシェック・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)は1810年3月1日、ワルシャワから西へ50kmのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)という村で、ショパン家の2番目の子供として生まれました。彼の父ミコワイ・ショパン(Mikołaj Chopin)はフランス人で、ポーランドに来て貴族の子弟達にフランス語を教えていた時に、貴族スカルベク家の侍女だったユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と知り合い結婚。長女ルドヴィカ(Ludwika)、長男フレデリック、次女イザベラ(Izabela)、三女エミリア(Emilia)の4人の子供に恵まれました。 ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家 フレデリックが生まれて半年後、父・ミコワイにワルシャワ高等学校でフランス語教師の仕事が決まり、一家はワルシャワへ引っ越してきます。 ショパンの両親はふたりとも音楽が好きで、母はピアノを弾き歌も歌い、父はフルートとバイオリンを、姉ルドヴィカもピアノを弾いていました。そんな環境の中で育ったショパンは姉からピアノの手ほどきを受け、6歳になるとチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィ(Wojciech Żywny)にピアノレッスンを受けるようになります。この少年に特別な才能があると気づいたジヴヌィはバッハやモーツアルトなどをみっちり教えつつ、ショパンの持つ即興演奏の才能を見守っていきます。このころショパンは初めてポロネーズや行進曲などを作曲したり演奏会に出るなどして、「天才少年現る」との声を欲しいままにしました。11歳の時には、ワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の前で御前演奏をしています。 1812年からショパンは著名な作曲家であるユゼフ・エルスネル(Józef Elsner)に時々プライベートレッスンを受けるようになります。また当時有名だったヴィルトゥオーゾ・ピアニストのヴィルヘルム・ヴァツワフ・ヴルフェル(Wilhelm Wacław Würfel)にピアノを習っていたようです。 1823年になるとショパンはワルシャワ高等学校に入学します。この学校に通う生徒は地方の裕福な家の子弟が多く、ショパンは夏休みにはクラスメート達の家に招待されることもありました。その中でも1824年と1825年に訪れたシャファルニア(Szafarnia)という田舎の生活と風景は彼に強烈な印象を与え、両親に向けて「シャファルニア新聞」と題した手紙を送っていました。さまざまな地方を訪れることによってショパンはポーランドの民族文化そして音楽に触れましたが、それはのちの彼の作品に大きな影響を与えています。また、高校在学中に学生ミサのオルガニストを務めた事により、オルガン音楽やポーランドの賛美歌を知ることが出来たのでした。 1826年、ショパンはエルスネルが校長を務めていた中央音楽学校に入学します。1年生の時点ですでにエルスネルはショパンについて「類まれな才能」と評していました。この学校でショパンは作曲・音楽理論・通奏低音を学び、“ラ・チ・ダレム・ラ・マーノのテーマによる変奏曲、作品2”や“ソナタ ハ短調、作品4”そして“ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク 作品14”などを作曲します。 在学中ショパンはある女性に恋心を抱くようになります。相手はコンスタンツィア・グワトコフスカ(Konstancja Gładkowska)という音楽学校の声楽科の生徒でした。ショパンは「彼女のことを夢に見る」と親友へ告げており、ピアノ協奏曲ヘ短調の第2楽章は彼女を思って作曲されたのだそうです。 1829年、ショパンは音楽学校を卒業します。成績表に記されたエルスネルの言葉は「フレデリック・ショパン – 類まれな才能、音楽の天才」というものでした。卒業すると彼はすぐにウィーンへおもむき、2回の演奏会を行ってデビューを果たしました。聴衆の反応はとても好意的で、これにより大きなモチベーションを得たショパンはさらに作曲に邁進するようになります。 1830年、前年のウィーンでのデビューの興奮冷めやらぬショパンと友人たちは、大規模な演奏会ツアーをしようと計画します。デビューコンサートですでにピアニストとしても作曲家としてもショパンの評判はヨーロッパ中に広まっていて、自信作である2曲目のピアノコンチェルトホ短調を書き上げ、ベルリンからも招待がきていました。 そして1830年11月2日、ついにショパンはウィーンへ旅立ちます。見送りにはショパンの親しい人たちが集まり、エルスネル教授がこのために作曲したカンタータが演奏され、コンスタンツィアはロッシーニの“湖上の美人”のアリアを歌いました。こうしてショパンは祖国を後にしたのでした。 ショパンはその後ポーランドに戻ることなく、1849年10月17日パリのアパートで息を引き取りました。姉のルドヴィカは遺言通りショパンの心臓をポーランドに持ち帰りましたが、ロシア政府の反応を恐れて当初はルドヴィカの家に隠された後聖十字架教会のカタコンベに移されました。その後1878年、フレデリックの甥であるアントニ・イエンジェイェヴィチによって柱の中に安置され、その2年後には胸像で飾られたエピタフが作られました。第2次世界大戦中に起きたワルシャワ蜂起の際、ドイツ軍はショパンの心臓の入った壷を持ち出し、ワルシャワの司教に委ねました。司教はそれを郊外にあるミラヌヴェクという村に隠し、ショパンの没後96年に当たる1945年10月17日、元あった場所に戻されました。 ワルシャワの聖十字架教会では毎年10月17日にはショパンを追悼するコンサートが行われ、モーツアルトのレクイエムが演奏されます。 関連記事 / Related posts: フレデリック・ショパン (Fryderyk Chopin) “ショパンと彼のヨーロッパ”国際音楽祭(Międzynarodowy festiwal muzyczny „Chopin i jego Europa”) ショパンの生家、工事のため一時休館へ フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール (Międzynarodowy Konkurs Pianistyczny im. Fryderyka Chopina) 最も有名なポーランド人は?
オスタトキ(Ostatki)は、カトリック教では謝肉祭(カーニバル)中の脂の木曜日から最終日の火曜日までの期間を指します。 オスタトキ最終日の翌日の「灰の水曜日」から復活祭に向けて準備する四旬節が始まりますが、四旬節はイエス・キリストが荒野で40日間断食をしたことに由来しているため、この期間はごちそうやパーティなどを控え、質素に生活しなければなりません。また、この期間に結婚式を挙げるのもあまりよしとされません。 というわけで、オスタトキは四旬節の前にご馳走を食べたりパーティが出来る最後の期間なのです。もちろん最終日の火曜日にパーティをする人もいますが、やはり平日は仕事や学校があるために、ほとんどの場合はその前の週末に済ませておくのだそうです。 このオスタトキは移動祝日なので毎年決まった日にちがあるわけではありません。また、国民の祝日ではないので商店なども通常営業、学校も休みにはなりません。2022年のオスタトキは2月24日から3月1日に当たります。 関連記事 / Related posts: ポピエレツ (Popielec) – ポーランドの祝祭日 ヴィエルキ・ポスト(Wielki Post) – ポーランドの祝祭日 アンジェイキ (Andrzejki) – ポーランドの祝祭日 ポーランドの大晦日 (Sylwester) – ポーランドの祝祭日 姑の日(Dzień Teściowej) – ポーランドの祝祭日
Nauka japońskiego potrafi sprawiać trudność. Skomplikowane jest nie tylko pismo – wiele osób miewa problemy z zapamiętywaniem japońskich słówek, ponieważ wiele z nich brzmi podobnie, różniąc się od siebie jedynie jedną literą, a nawet brzmi identycznie, różniąc się jedynie w zapisie (np. hana 花 – kwiat i hana 鼻 – nos). Świetnym sposobem na sprawdzenie i utrwalenie swojej wiedzy z zakresu japońskiego słownictwa jest doskonale znana w Japonii gra słowna shiritori. W dużym skrócie, do gry potrzebnych jest minimum dwóch graczy, znajomość japońskiego pisma, czyli kany (sylabariuszy hiragany oraz katakany) oraz pewien zasób japońskiego słownictwa. Nazwa gry, czyli shiritori しりとり, pochodzi od wyrażenia shiri o toru 尻を取る, czyli dosłownie „wziąć tył”, i […]