ルドヴィク・ザメンホフ (Ludwik Zamenhof)

ルドヴィク・ワザジュ・ザメンホフ(Ludwik Łazarz Zamenhof)はユダヤ系ポーランド人の眼科医であり言語学者で、人工言語エスペラントの創始者です。彼の名前はルドヴィク・レイゼル・ザメンホフ(Ludwik Lejzer Zamenhof)とも、またはエスペラント語でルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフ(Ludoviko Lazaro Zamenhof)と表記することもあります。

ザメンホフは1859年12月15日、帝政ロシアの支配下にあったポーランド東部のビアウィストックという街で生まれました。10人兄弟のひとりとして育った彼の家ではヘブライ語・ロシア語・ポーランド語が日常的に話されており、また、当時のビアウィストックにはポーランド人・ユダヤ人・ロシア人そしてドイツ人が住んでいたことで、ザメンホフは幼い頃から人々が理解しあえないのは言葉の壁があるためではないかとの考えを抱くようになりました。

彼はワルシャワの中学校に通いながら新しい言語を作る試みを始め、1878年には「リングウェ・ウニヴェルサラ」の原版が完成、その後数年にわたって

医大を卒業したザメンホフはワルシャワで眼科医として働き始めますが、新言語創設への情熱は薄れることはなく、1887年7月26日、ドクトロ・エスペラントの名で”Język międzynarodowy. Przedmowa i podręcznik kompletny(国際語。序文と完全な教科書)”という本をロシア語で出版しました。本を出版するためには2年の歳月を要しましたが、最終的には後に妻となるクララ・シルベルニクの父親から経済的な援助を受けられたことで出版にこぎつけることが出来たのでした。同年にはこの教科書はポーランド語・フランス語・ドイツ語そして英語に翻訳されています。

ザメンホフにとってエスペラント語は単なるコミュニケーションの道具としての言葉ではなく、異なる文化を持つ人々が平和に共存していけるように作られたものでもありました。

ザメンホフは1917年4月14日ワルシャワで亡くなりました。遺体はワルシャワのオコポヴァ通り沿いにあるユダヤ人墓地に葬られています。

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(写真はザメンホフが住んでいた家とザメンホフの銅像)

チャリティ財団WOŚP

毎年1月のある日曜日に町を歩くと、コートや帽子に赤いハートシールを貼って歩く人をたびたび目にします。それだけではなく、町のいたるところが赤いハートで埋め尽くされます。一体これは何なのでしょうか?

これはWielka Orkiestra Świątecznej Pomoocy(ヴィエルカ・オルキェストラ・シフィヨンテチネイ・ポモツィ – 略してWOŚP)というポーランドのチャリティ財団が、ポーランド全土で行っているイベントの一環です。毎年1月の第2日曜日はWOŚPファイナルと呼ばれ、たくさんのボランティアたちが町で募金を募ります。募金をすると赤いハートのシールを1枚もらえるという仕組み。夜は有名アーティストが多く出演するコンサートが各地で開かれ、イベントはクライマックスを迎えます。

町での募金以外にもインターネットオークションがあり、芸能人やスポーツ選手の私物のほか、一般の人が出品したオークションで購入することで募金になる、という仕組みになっています。今年もオークションにはテニスのイガ・シフィヨンテク選手(2022年の全仏オープンとUSオープンで使用したラケットと2023年全仏オープン初戦の招待状)や「市民プラットフォーム」党党首で元欧州連合理事会議長のドナルド・トゥスク氏(地元グダンスクで一緒に散歩&昼食)、ワルシャワ市長ラファウ・チャスコフスキ氏(市長が司式者として新郎新婦に結婚式を執り行う)をはじめとし、多くの人が参加しています。

今年で31回目を迎えるこのイベントは、イエジィ・オフシャック(Jerzy Owsiak)氏というラジオDJが中心になって1993年に設立した財団が行っているもので、重病・難病の子供たちの治療や病状回復の援助を目的としています。設立のきっかけは、ワルシャワ小児病院の設備不足に悩む心臓外科医たちが当時オフシャック氏がDJをしていたラジオ番組に出演し、リスナーに募金を呼びかけたところから始まりました。この時に集まった募金は約242万PLN(約7260万円)にも達し、小児病院で必要だった設備のほかにも、全国の10の小児心臓外科へ必要設備を寄贈することができました。それから30年、WOŚPが集めたお金で購入された2万以上の最新の医療機器はポーランド各地の病院に寄贈され、小さな子供たちの命を救っています。2013年からは子供達のためだけではなく、高齢者医療にも焦点が当てられています。2022年に集まった金額はなんと合計約2億2400万ズウォティ(日本円で約67億2000万円)で、過去最高額となったと発表されています。

募金の目的にも毎年テーマがあります。2023年は「敗血症に勝ちたい!(Chcemy wygrać sepsą!)」となっており、集まった募金で敗血症の診断に役立つ医療機器を購入し、国内の病院に寄付する予定だそうです。

このWOŚPの活動について、「左翼の活動」「集まった募金を着服しているのではないか」など批判的な意見も出ました。これに対しオフシャック氏は、集まった募金の92%はチャリティ目的に、8%は経費となっているとのポーランド労働省によるレポートを発表し、反論しています。

2021年からはコロナウイルスの影響から、ファイナルは恒例の1月第2日曜ではなく1月最終日曜日に行われているほか、公式サイトやSMSだけではなく、Zrzutka.pl, Siepomaga.pl, Wspieram.toの各ページからも募金を行うことが出来るようになりました。

詳細については財団公式ページをご覧ください。

(写真は財団公式フェイスブックページからのものです)

フレデリック・ショパン (Fryderyk Chopin)

「ピアノの詩人」と呼ばれ、世界中の音楽ファンを魅了してやまない作曲家、ショパン。

ポーランド人の誇りであるこの偉大な音楽家、フレデリック・フランチシェック・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)は1810年3月1日、ワルシャワから西へ50kmのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)という村で、ショパン家の2番目の子供として生まれました。彼の父ミコワイ・ショパン(Mikołaj Chopin)はフランス人で、ポーランドに来て貴族の子弟達にフランス語を教えていた時に、貴族スカルベク家の侍女だったユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と知り合い結婚。長女ルドヴィカ(Ludwika)、長男フレデリック、次女イザベラ(Izabela)、三女エミリア(Emilia)の4人の子供に恵まれました。

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ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家

フレデリックが生まれて半年後、父・ミコワイにワルシャワ高等学校でフランス語教師の仕事が決まり、一家はワルシャワへ引っ越してきます。

ショパンの両親はふたりとも音楽が好きで、母はピアノを弾き歌も歌い、父はフルートとバイオリンを、姉ルドヴィカもピアノを弾いていました。そんな環境の中で育ったショパンは姉からピアノの手ほどきを受け、6歳になるとチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィ(Wojciech Żywny)にピアノレッスンを受けるようになります。この少年に特別な才能があると気づいたジヴヌィはバッハやモーツアルトなどをみっちり教えつつ、ショパンの持つ即興演奏の才能を見守っていきます。このころショパンは初めてポロネーズや行進曲などを作曲したり演奏会に出るなどして、「天才少年現る」との声を欲しいままにしました。11歳の時には、ワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の前で御前演奏をしています。

1812年からショパンは著名な作曲家であるユゼフ・エルスネル(Józef Elsner)に時々プライベートレッスンを受けるようになります。また当時有名だったヴィルトゥオーゾ・ピアニストのヴィルヘルム・ヴァツワフ・ヴルフェル(Wilhelm Wacław Würfel)にピアノを習っていたようです。

1823年になるとショパンはワルシャワ高等学校に入学します。この学校に通う生徒は地方の裕福な家の子弟が多く、ショパンは夏休みにはクラスメート達の家に招待されることもありました。その中でも1824年と1825年に訪れたシャファルニア(Szafarnia)という田舎の生活と風景は彼に強烈な印象を与え、両親に向けて「シャファルニア新聞」と題した手紙を送っていました。さまざまな地方を訪れることによってショパンはポーランドの民族文化そして音楽に触れましたが、それはのちの彼の作品に大きな影響を与えています。また、高校在学中に学生ミサのオルガニストを務めた事により、オルガン音楽やポーランドの賛美歌を知ることが出来たのでした。

1826年、ショパンはエルスネルが校長を務めていた中央音楽学校に入学します。1年生の時点ですでにエルスネルはショパンについて「類まれな才能」と評していました。この学校でショパンは作曲・音楽理論・通奏低音を学び、“ラ・チ・ダレム・ラ・マーノのテーマによる変奏曲、作品2”や“ソナタ ハ短調、作品4”そして“ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク 作品14”などを作曲します。

在学中ショパンはある女性に恋心を抱くようになります。相手はコンスタンツィア・グワトコフスカ(Konstancja Gładkowska)という音楽学校の声楽科の生徒でした。ショパンは「彼女のことを夢に見る」と親友へ告げており、ピアノ協奏曲ヘ短調の第2楽章は彼女を思って作曲されたのだそうです。

1829年、ショパンは音楽学校を卒業します。成績表に記されたエルスネルの言葉は「フレデリック・ショパン – 類まれな才能、音楽の天才」というものでした。卒業すると彼はすぐにウィーンへおもむき、2回の演奏会を行ってデビューを果たしました。聴衆の反応はとても好意的で、これにより大きなモチベーションを得たショパンはさらに作曲に邁進するようになります。

1830年、前年のウィーンでのデビューの興奮冷めやらぬショパンと友人たちは、大規模な演奏会ツアーをしようと計画します。デビューコンサートですでにピアニストとしても作曲家としてもショパンの評判はヨーロッパ中に広まっていて、自信作である2曲目のピアノコンチェルトホ短調を書き上げ、ベルリンからも招待がきていました。

そして1830年11月2日、ついにショパンはウィーンへ旅立ちます。見送りにはショパンの親しい人たちが集まり、エルスネル教授がこのために作曲したカンタータが演奏され、コンスタンツィアはロッシーニの“湖上の美人”のアリアを歌いました。こうしてショパンは祖国を後にしたのでした。

ショパンはその後ポーランドに戻ることなく、1849年10月17日パリのアパートで息を引き取りました。姉のルドヴィカは遺言通りショパンの心臓をポーランドに持ち帰りましたが、ロシア政府の反応を恐れて当初はルドヴィカの家に隠された後聖十字架教会のカタコンベに移されました。その後1878年、フレデリックの甥であるアントニ・イエンジェイェヴィチによって柱の中に安置され、その2年後には胸像で飾られたエピタフが作られました。第2次世界大戦中に起きたワルシャワ蜂起の際、ドイツ軍はショパンの心臓の入った壷を持ち出し、ワルシャワの司教に委ねました。司教はそれを郊外にあるミラヌヴェクという村に隠し、ショパンの没後96年に当たる1945年10月17日、元あった場所に戻されました。

ワルシャワの聖十字架教会では毎年10月17日にはショパンを追悼するコンサートが行われ、モーツアルトのレクイエムが演奏されます。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (Wisława Szymborska)

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (Wisława Szymborska)はポーランドの詩人・エッセイスト・評論家・翻訳家・ノーベル文学賞受賞者です。

シンボルスカは1923年7月2日現在はクルニクの一部となっているプロヴェントという町で政治家の父ヴィンツェンティと母マリアの次女として生まれました。1929年クラクフへ引越し、第2次世界大戦中は地下学校で教育を受け、1943年からは鉄道員として働いたことでドイツ帝国への強制労働送りを免れました。この頃英語の教科書に挿絵を書いていたと同時に詩を書き始め、1945年クラクフの文学界に登場、翌年ヤギエウォ大学ポーランド学科に入学(途中で社会学に転向)しましたが、経済的な理由から退学します。

1948年詩人のアダム・ヴウォデクと結婚(54年に離婚)。1949年に最初の詩集を刊行する予定だったものの「社会主義の必要条件を満たさない」という理由で検閲に通らず出版されませんでした。とは言うもののポーランドの他の知識人たちと同じようにシンボルスカも社会主義政府のイデオロギーに賛成していましたが、次第に社会主義イデオロギーに興味を失い、のちには反体制側にまわります。1967年からは詩人のコルネル・フィリポヴィッチがパートナーでしたが、結婚することはありませんでした。

1996年にノーベル文学賞を受賞。2010年の大統領選挙の際はブロニスワフ・コモロフスキ氏の後援会員をつとめました。

2012年2月1日クラクフの自宅で眠っている間に死去。遺体はクラクフのラコヴィエツキ墓地に安置されています。

代表作には「自問」(“Pytania zadawane sobie”: 1954)、「塩」(“Sol”: 1962)、「万一」(”Wszelki wypadek”: 1972)、「大きな数字」(”Wielka liczba”: 1976)、「終わりと始まり」(”Koniec i początek”: 1993)があります。

オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk)

オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk)はポーランドの作家・詩人・エッセイスト・脚本家です。

トカルチュク氏は1962年11月29日ポーランド西部スレフフ生まれ。ワルシャワ大学心理学部を卒業し、卒業後はサイコセラピストとしてヴァウブジフの精神衛生相談所に勤務していました。

1993年に作家デビュー。2008年にポーランド文学最高峰のニケ賞を受賞。『逃亡派(Bieguni)』で2018年マン・ブッカー国際賞受賞。2019年に2018年度のノーベル文学賞を受賞しました。

トレードマークはドレッドヘアで、フェミニスト・ベジタリアンとして知られるほかにも動物愛護・自然保護・人権活動に熱心なことで知られています。

これまでに多くの作品を発表していますが、邦訳では代表作「逃亡派(原題:Bieguni)」「昼の家、夜の家(原題:Dom dzienny, dom nocny)」「プラヴィェクとそのほかの時代(原題:Prawiek i inne czasy)」が刊行されています。

(写真はgazeta.plのものです)

ポーランドのノーベル賞受賞者

◆ノーベル物理学賞・化学賞◆

マリア・スクウォドフスカ・キュリー夫人 (Maria Skłodowska – Curie)、(1867年11月7日生・1934年7月4日没)
物理学者・化学者。政治運動に参加し故国を越え、フランスに亡命。物理学者ベクレルの影響を受け、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証。原子物理学の最初の基礎を作るとともに、文字通り今世紀の原子力・核の時代を開く。夫ピエール・キュリー、ベクレルとともに、第一回物理学賞(1903)。後、金属(単体)ラジウムの単離に成功し、ノーベル化学賞も受賞(1911)。

Maria Sklodowska-Curie

◆ノーベル文学賞◆

ヘンリク・シェンキエヴィッチ (Henryk Sienkiewicz)、(1846年5月5日生・1916年11月15日没)作家。
1866〜1869年、法学を学ぶと共に、中央大学史学部の学生でもあった。 1872〜1887年、報道記者・特別欄担当者として働き、1882〜1887年、「単語」(”Słowo”)の編集者。70年代から海外旅行を始め、北米やイタリアやスペインなどに行った。第一次世界大戦が派生時にはスイスでポーランド人犠牲者委員会を設立した。独立を失ったポーランドでの外国政府の弾圧政策に対抗し、独立回復を求めて戦いを続けた。失われた祖国への思いを込めた作品を作っていたが、彼の作品には社会問題も取り上げられている(「ヤンコバンドマン」(”Janko Muzykant”:1880)。しかし世間の注目を浴びたのはポーランドの激しい歴史を語る3部作、「火と剣と」(”Ogniem i mieczem”:1884)、「大洪水」(”Potop”:1886)「ヴォウォディヨフスキ氏」(”Pan Wołodyjowski”:1888)。世界的に知られているのは「クオ・ヴァディス」(Quo Vadis)である。1905年にノーベル文学賞を受賞した。

Henryk Sienkiewicz

ヴウァディスヴァフ・レイモント(Władysław Reymont)、(1867年5月7日生・1925年12月5日)、作家。オルガン奏者の息子。幼い頃、仕立屋の弟子。役者としても活躍し、1893年、記者の仕事に就いた。1895〜1897年、旅の時期を過ごし、電車の事故に遭ったが、奇跡的に生き延びた。第一次世界大戦の際、政府に抵抗し、独立回復するのに戦い続けた。大きな反響を呼んだのは「約束の地」(”Ziemia obiecana”:1899)、そしてノーベル賞の授賞理由になった「農民」(”Chłopi”: 1904〜1909)である。ノーベル賞を授賞したのは1924年のこと。

Wladyslaw Reymont

チェスワフ・ミウォシュ(Czesław Miłosz)(1911年6月30日生・2004年8月24日)
ポーランドの詩人、随筆家、訳者。第二次大戦中にAK「国内軍」に加わり地下活動を行なっていた。戦後外交官としてワシントンとパリ(46〜50年)在住。フランスに亡命し(51年)、その後アメリカへ渡り(60年)、以後カリフォルニア大学教授であった。90年代にポーランドに戻り、クラクフに在住した。代表作は「まひるの明かり」(”Światło dzienne”:1953)、「囚われの魂」(”Zniewolony umysł:1953)、「名前の無い町」(”Miasto bez imienia”:1969)、「故郷のヨーロッパ」(”Rodzinna Europa”)、「ウルロの地」(”Ziemia Urlo:1977)、「これ」(”To”:2000)。1980年ノーベル文学賞受賞。

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ヴェスワヴァ・シンボルスカ (Wiesława Szymborska)、(1923年7月2日生・2012年2月1日没)、ブニン町(ポズナン周辺)
生まれ。1945〜48年、ヤギェウウォ大学でポーランド文学と社会学を学び、1953年から「Życie Literackie」の編集グループの一員として活躍。代表作は「自問」(„Pytania zadawane sobie”: 1954)、「塩」(„Sol”: 1962)、「万一」(”Wszelki wypadek”: 1972)、「大きな数字」(”Wielka liczba”: 1976)、「終わりと始まり」(”Koniec i początek”: 1993)等。
人間の存在・歴史との関係をモチーフにしている詩人。よくアイロニーとパラドクスを手段として使っている。1996年にノーベル文学賞受賞。授賞理由は「人間の本質が持つ様々な断面に、歴史的、女性的視点からアイロニーを込めて照らし出した詩」であった。

Wislawa Szymborska

オルガ・トカルチュク (Olga Tokarczuk) (1962年11月29日生-)
ポーランドの作家・詩人。1993年に作家デビュー。2008年にポーランド文学最高峰のニケ賞を受賞。『逃亡派(Bieguni)』で2018年マン・ブッカー国際賞受賞。2019年に2018年度のノーベル文学賞を受賞した。代表作は「逃亡派(原題:Bieguni)」「昼の家、夜の家(原題:Dom dzienny, dom nocny)」「プラヴィェクとそのほかの時代(原題:Prawiek i inne czasy)」など。

◆ノーベル平和賞◆

レフ・ワレサ(Lech Wałęsa)、 (1943年生‐)。ポーランドの労働組合運動家、政治家、ポーランド語ではレフ・ヴァウェンサと読む。元ポーランド大統領。工業学校を卒業した後、グダニクスの造船所にて電気工として就職した。
当時、共産党は主権を握っていた。共産党議長であったギエレクは経済政策に失敗し、それを機に各地でストが発生し、そのストを指導した。1970年、1980年と造船所ストライキを決行し、全国的な自主管理労働<連帯>を結成。初代議長として政府の弾圧政策に対抗し、労働者の自由を求めて戦い
を続けた。何度か政府によってその身柄を拘束されたワレサであったが、1983年にはノーベル平和賞を受賞し、1989年には共産政権を打倒し、1990年に憲法を改正させた。その年の自由選挙によって大統領に就任した。1995年に大統領選で敗れ、失脚。

Lech Walesa

ニコラウス・コペルニクス (Mikołaj Kopernik)

地動説で世界的に有名なニコラウス・コペルニクスはポーランド人。ポーランド語ではミコワイ・コペルニク(Mikołaj Kopernik)といいます。1473年にポーランド=リトアニア同君連合王国の都市であったトルンという町で、裕福な商人の息子として生まれました。

最初に入った聖ヨハネ教会付属の学校でラテン語と数学そして天文学に触れたコペルニクスは、その後ヴロツワフの教会付属学校を経て1491年クラクフアカデミー(現在のクラクフ・ヤギウェウォ大学)に入学、1495年に卒業します。彼がクラクフで学んだ時期はちょうど天文学・数学の黄金期でした。大学を卒業したその年にはヴァルミア地区の律修司祭になりました。

1496年になると叔父の勧めもあり、イタリアのボローニャで法律を学び始めました。そこで出会った天文学者のドミニカ・マリア・ノヴァッラの影響により、プトレマイオスが提唱した天動説に対する地動説の研究を始め、天体の逆行運動を地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていきました。

しかし当時は「地球のほうが動いている」という主張は聖書の教えに反するものであり、迫害の対象となってしまうために彼の執筆した「天体の回転について」は彼が死去するまで出版されませんでした。

死後はフロムボルグの大聖堂に埋葬されたといわれていましたが、骨は確認されていませんでした。2004年から調査チームが発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見しました。この遺骨はスウェーデンのウプサラ大学との共同調査によりコペルニクスのものと判断されました。

才能豊かだったコペルニクスは天文学者・司祭だけではなく、政治の世界では県知事や行政士官を勤め、また弁護士、医者、占星術師でもありました。

コペルニクスが生まれたといわれている家はトルンの旧市街に残っており、現在はコペルニクス博物館になっています。2018年に改装されてとても近代的になったので、一度足を運んでみてはいかがでしょうか?

コペルニクス博物館 (Dom Mikołaja Kopernika)

ul. Kopernika 15/17,  Toruń

tel/ (56) 660 56 13  e-mail: kopernik@muzeum.torun.pl

http://www.muzeum.torun.pl/  (英語あり)

クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)

クシシュトフ・キエシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)は「デカローグ」や3部作「トリコロール」で有名な、ポーランドの映画監督です。

クシシュトフ・キエシロフスキは1941年6月27日ワルシャワで生まれました。義務教育を終えたあとは消防学校に入学しましたが、わずか半年で退学。1957年には家族のすすめで、彼の叔父が校長を務めていたワルシャワの演劇学校に入学。卒業後は演劇監督になることを夢見るも断念、ウッジの国立演劇大学へ進学しますが、入学試験には2回落第し、3回目でやっと合格したのだそうです。大学在学中の1967年にマリア・カウティッロ夫人と結婚。1972年には娘・マルタが誕生しました。

1976年に初めての長編劇映画『傷跡』でデビュー。1979年に製作した長編ニ作目の『アマチュア』はモスクワ国際映画祭で金賞を受賞しました。1988年から1989年にかけて、聖書の十戒をモチーフとした10編からなるTVシリーズ『デカローグ』を製作。この作品はヴェネツィア国際映画祭で上映され国際映画批評家連盟賞を受賞。後者は第41回カンヌ国際映画祭で審査員賞と国際映画批評家連盟賞を受賞しました。

1991年の『ふたりのベロニカ』はポーランドとフランスを舞台に容姿・名前が全く同じ二人の女性・ベロニカ(イレーヌ・ジャコブの一人二役)の運命を描いた作品で、第44回カンヌ国際映画祭で上映され、二度目となる国際映画批評家連盟賞を受賞しました。1993年からはフランス革命のキーワードであった「自由・平等・博愛」をテーマとした『トリコロール』三部作を製作。ジュリエット・ビノシュ演じる自動車事故で夫と娘を亡くした女性の絶望を描いた『トリコロール/青の愛』は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を、そしてフランスのアカデミー賞にあたるシーザー賞を3部門で受賞。1994年に発表した二作目、自分を捨てたフランス人の妻に復讐を企てるポーランド人理髪師の姿を描いた『トリコロール/白の愛』は、第44回ベルリン国際映画祭で監督賞を受賞。同年に製作された、人々の孤独をテーマにした『トリコロール/赤の愛』は第47回カンヌ国際映画祭で上映され、パルム・ドール賞受賞が期待されましたが、結局無冠に終わりました(ちなみにその時パルム・ドール賞を受賞したのは「パルプ・フィクション」)。

『トリコロール/赤の愛』”Trzy kolory: Czerwony”

キエシロフスキは映画監督であっただけでなく、1971年からはポーランド映画人協会のメンバーでもあり、1978-81年には副会長を務めていました。またカトヴィツェやウッジ、西ベルリン、ヘルシンキ、スイスの映画学校で講義をするなどしていました。1977年には演劇監督として、自身の作品であるドキュメント映画をもとにした“履歴(Życzorys)”でデビュー。そのほかにもポーランド国営放送TVPで放送された“テレビ劇場(Teatr Telewizji)”でも3つの作品を監督しました。

1996年3月13日、心臓病で死去。遺体はワルシャワのポヴォンスキ墓地に埋葬されています。

アンジェイ・ヴァイダ氏が死去

ポーランドを代表する映画監督のアンジェイ・ヴァイダ(ワイダ)氏が2016年10月9日夜亡くなりました。90歳でした。

ヴァイダ監督は1954年に「世代 (Pokolenie)」でデビュー。56年に発表した「地下水道 (Kanał)」(第10回カンヌ国際映画祭審査員特別賞)、58年の「灰とダイヤモンド (Popiół i diament」(第20回ヴェネツィア国際映画祭国際批評家連盟賞)と合わせて「抵抗3部作」と呼ばれており、国際的な評価を受けました。

1976年には労働英雄となった男の末路を描いた「大理石の男 (Człowiek z marmuru)」を発表。その続編に当たる、80年代に始まったポーランドの抵抗運動”連帯”を描いた「鉄の男 (Człowiek z żelaza)」は第34回カンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞しました。

1989年からは1991年までは上院議員を勤めました。2000年には第27回アカデミー賞で名誉賞を受賞。高齢ながらも精力的に映画製作を続け、2007年にはソ連によるポーランド人将校大虐殺をテーマにした「カティンの森 (Katyń)」、2013年にはポーランドの民主化運動指導者でのちに大統領となったレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)氏の半生を描いた「ワレサ 連帯の男 (Wałęsa. Człowiek z nadziei)」を発表しました。最近では最新作「Afterimage (Powidoki)」の完成が発表されたばかりでした。この作品は2017年アカデミー外国語映画賞のポーランド代表作品として出品されることが決定しています。

また日本美術や日本について造詣が深かったことでも知られており、1997年に京都賞(思想・芸術部門)を受賞。賞金を基金として、1994年にクラクフに「日本美術技術博物館 マンガ (Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej Manggha」を設立しています。

(写真はwww.tvn24.plのものです)

ヨハネ・パウロ2世 (Jan Paweł II)

ヨハネ・パウロ2世(ポーランド語ではヤン・パヴェウ・ドゥルギィ – Jan Paweł II)はポーランド出身の第264代ローマ教皇です。(在位:1978年10月16日‐2005年4月2日)

史上初のスラヴ人教皇であるヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ‐ Karol Józef Wojtyła)は、1920年5月18日、ポーランドのヴァドヴィツェ(Wadowice)で父カロル・母エミリアの次男として生まれました。8歳のとき母を、11歳のとき兄をなくし、父の手で育てられました。その後クラクフのヤギウェオ大学に入学しポーランド文学を専攻。1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって大学が閉鎖、さらには翌年父が他界。生活のために肉体労働に従事しながら、勉学と演劇活動に打ち込みます。この間に聖職者への志が芽生えましたが、公式には神学校の運営が禁止されていたために非合法の地下新学校へ入学。1946年11月11日に司祭に叙階されました。同年、ローマのアンジェリクム神学大学に送られ、1948年に神学博士号を取得。その後帰国し、クラクフの教区司祭として勤めました。その後、ルブリン・カトリック大学やクラクフ・カトヴィツェなどの神学校で倫理神学を教え、1958年にはクラクフ教区の補佐司教に、1964年にクラクフ教区の大司教に、そして1967年には枢機卿に新任されました。

1978年、当時の教皇パウロ6世の死去に伴い新教皇に選出するためのコンクラーヴェに参加。選出されたのは当時65歳のヨハネ・パウロ1世でしたが、在位33日にして教皇が死去してしまったため、同年10月に再びコンクラーヴェが行われた結果、第264代目の教皇として選出され、ヨハネ・パウロ2世と名乗りました。

教皇登位後は、最初の訪問国であるメキシコを初めとして、2003年の最後の訪問国であるスロバキアまで100カ国以上を訪問し、「空飛ぶ教皇」と呼ばれました。民族や宗教・国を越えた対話を目指し、各国のリーダーや政治家、宗教関係者との会見も積極的に行いました。また、すべての命と人権の擁護、戦争や暴力に反対するなど、平和への活動にも取り組みました。国民の90%以上がカトリック信者だった社会主義時代のポーランドでは、教皇の存在が国民の精神的な支えとなり、後の民主化に大きな影響を与えたと言われています。

2005年2月からインフルエンザによる喉頭炎で入退院を繰り返し、4月2日に逝去。教皇逝去の知らせを受け、世界中から500万人がバチカンに集まったといわれています。

ヨハネ・パウロ2世は2011年5月11日に列福、2014年4月27日に列聖されました。

第87回アカデミー賞:ポーランドの“Ida”が外国語映画賞を授賞!

2015年2月22日アメリカ・ロサンゼルスのドルビーシアターで行われたアカデミー賞授賞式で、パヴェウ・パヴリコフスキ(Paweł Pawlikowski)監督の”Ida(イーダ)”が外国語映画賞を授賞しました!これまでにもロマン・ポランスキー監督の「水の中のナイフ (Nóz w wodzie)」やアンジェイ・ワイダ監督の「約束の土地 (Ziemia obiecana)」「鉄の男 (Człowiek z żalaza)」「カティンの森 (Katyń)」、アグニェシュカ・ホランド監督の「ソハの地下水道 (W ciemności)」など9つのポーランド映画が外国語映画賞にノミネートされたことは何度もありましたが、授賞したのは今回が初めてです。

「イーダ」は1960年台のポーランドを舞台に、孤児として修道院で育った少女が、今まで存在を知らされていなかったおばに会いに行き、そこで自分が本当は何者なのかを知らされ、自分の出生の秘密を探す旅に出る物語です。アカデミー賞外国語映画賞のほかにも、ポーランド映画賞で作品賞・監督賞・主演女優賞(おば役のアガタ・クレシャ)・脚本賞を受賞したほか、2014年ヨーロッパ映画賞では作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞・ピープルズチョイス賞を受賞するなど様々な賞を授賞しているほか、またゴールデン・グローブ賞外国語映画賞にもノミネートされました。

日本での「イーダ」の公開の詳細についてはこちらをご参照ください。


 

(トップの写真左よりイーダ役のアガタ・チシェブホフスカ、パヴェウ・パヴリコフスキ監督、おば役のアガタ・クレシャ。写真はgazeta.plのものです)
 

アンジェイ・ワイダ 若き映画人たちへ贈る授業(ポーランド関係番組情報)

2015年2月21日13:00からのwowowの「ノンフィクションW」で「アンジェイ・ワイダ 若き映画人たちへ贈る授業」が放送されます(再放送は2月23日深夜1:00~)。

今回の主役はポーランドの映画界の巨匠であるアンジェイ・ワイダ監督。実はワイダ監督、2001年に「ワイダ・スクール」という映画学校を設立しました。小さな学校ではありますが、卒業生たちは第一線で活躍している人ばかり。ワイダ監督は後進に何を伝えたいのか、それを探るために3ヶ月に渡って現場に密着してきました。

高齢なこともありワイダ氏が教壇に立つことも限られていますが、ひとたび講義が始まると自身の経験や手法だけではなく、ポーランドの歴史や映画史、はたまた絵画や音楽にまで話を広げながら、映画とはどうあるべきか、どのような表現方法があるのかを熱弁。生徒を教えるだけではなく、若い人たちからもインスピレーションを受けるのでしょうか、生徒達とのディスカッションの間も目をキラキラさせながら生徒達の作品に意見をしたり、「自分ならこうする」とアイデアを出していていました。

WOWOWでは「映画とノンフィクションで観る!巨匠アンジェイ・ワイダの世界」と題してヴァイダ監督の「世代」(2/23)、「地下水道」(2/24)、「灰とダイヤモンド」(2/25)、そして最新作「ワレサ 連帯の男」(2/26)の全4作を連夜放送する予定です。まだワイダ監督の作品に触れたことのない方はこの機会に合わせてぜひご覧ください!

放送についての詳細はWOWOWホームページをご参照ください。

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レフ・ヴァウェンサ (Lech Wałęsa)

レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと読まれるが、ポーランド語での発音はヴァウェンサ)はポーランドの労働運動家、独立自主管理労組「連帯」の初代委員長です。

レフ・ヴァウェンサは1943年9月29日、現在のクヤフスコ・ポモルスキェ県にあるポポヴァという小さな村で7人兄弟の4番目として生まれました。1961年にリプノの職業訓練学校を卒業したのちウォホチンと言う村で電気工として働いた後、1967年グダンスクのレーニン造船所の電気工となりました。1976年以後、ストライキ委員会の一員として活躍。1980年には物価値上げに端を発した造船所の争議を指導。バルト海沿岸工場間ストライキ委員会委員長に就任。グダンスク合意を成功させ、「連帯」の委員長になりました。1981年12月ポーランド政府の戒厳令により、翌年11月まで身柄を拘束されましたた。1983年10月にノーベル平和賞受賞。1988-89年の政府・「連帯」・カトリック教会との「円卓会議」実現に尽力、「連帯」合法化後の1989年ポーランド初の部分的自由選挙で「連帯」を勝利に導きました。非共産主義政権発足後の1990年に大統領に就任、1995年まで任務を務めました。1995年には「レフ・ヴァウェンサ・ファンデーション」を設立、それまでの経験をもとにして、政治活動でのモラルや独立国家の必要性、また「連帯」活動の歴史などを若い世代に伝えていく活動をしています。

プライベートでは1969年に妻のダヌタさんと結婚、8人の子供に恵まれました。また、敬虔なカトリック教徒であることでも知られています。2013年にはポーランド映画界の巨匠であるアンジェイ・ヴァイダ監督が、ヴァウェンサ氏および連帯をテーマにした伝記映画「ワレサ 連帯の男」を発表しています。

第27回東京国際映画祭:ポーランド人俳優が最優秀男優賞を受賞

10月23日から31日まで開催されていた第27回東京国際映画祭で、ポーランド人俳優ロベルト・ヴィエンツキェヴィチ(Robert Więckiewicz)が最優秀男優賞を受賞しました。

彼の主演した作品はヴォイチェフ・スマジョフスキ(Wojciech Smarzowski)監督の“マイティ・エンジェル”(原題:”Pod Mocnym Aniołym” – ポド・モツヌィム・アニョウィム)で、これはポーランド人作家Jerzy Pilch(イエジィ・ピルフ)の作品を映画化したもの。成功を収めている作家はアルコール依存症。彼は若い女性に出会い、依存症から抜け出そうと決心するもまた飲んでしまい、施設に収容される。そこで出会った他の依存患者たちのエピソードを交えながら、人間の心の闇を描くドラマです。

この作品のプロデューサーであるヤツェク・ジェハク(Jacek Rzehak)氏は、「作品は審査員や観客に大きな印象を与え、議論を巻き起こした。既にアジアの配給会社からは問い合わせが殺到している。この東京でのヴィエンツキェヴィッチ氏の最優秀男優賞受賞は、彼を世界最高の俳優の一人に押し上げるきっかけとなるだろう」とコメントしています。
 
 


 

ヤルゼルスキ元ポーランド大統領死去

 
ポーランド社会主義政権の最後の指導者であり、その後民主化されたポーランドの大統領となったヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(Wojciech Jaruzelski)氏が、2014年5月25日15時24分、ワルシャワ市内の病院で死去しました。90歳でした。

ヤルゼルスキ氏は首相であった1981年、高まる民主主義への要求に対抗して戒厳令を断行。ポーランドの民主主義運動の中心であった自主管理労組「連帯」のリーダーであったワレサ元大統領など多数の活動家を拘束・弾圧するなどして非難を浴びましたが、83年の戒厳令解除後は「連帯」との対話に乗り出し、ポーランド民主化への筋道をつけたとされています。

2007年には戒厳令布告の際の民主化弾圧の責任を問われ、ポーランド検察によって起訴されています。ヤルゼルスキ氏は戒厳令について、「ソ連の軍事介入を防ぐためには仕方なかった」と述べていますが、民主化運動を弾圧したことを批判する人が多い一方、彼の行動を正当化する人もおり、国内でも氏についての評価は割れています。

ヤルゼルスキ氏は2011年よりがんの治療を受けていましたが、今月初めに脳卒中になり、呼吸困難や体の麻痺などの症状を訴え、治療中でした。