グルンヴァルドの戦い (Bitwa pod Grunwaldem)とは1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で行われた戦闘のことです。 この戦闘の舞台は現在ポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルド村・ステンバルク村そしてウォドヴィゴヴォ村の間にある平原でした。それまでドイツ騎士団はキリスト教布教の名目で各地域を侵略してきました。当時東ヨーロッパでは唯一リトアニア大公国がキリスト教ではありませんでした。しかし1386年、リトアニア大公のヤギエウォがポーランド王女ヤドヴィガと結婚してポーランド王ヴワディスワフ2世となり、ポーランド王国とリトアニア大公国の両方の王となりました。それにともない、リトアニア大公国もキリスト教に改宗しました。これではドイツ騎士団はリトアニアに侵略できません。その上、1409年にドイツ騎士団領だったジュムジでの反乱をリトアニア大公国が支援したことがドイツ騎士団の反感を買い、戦いに至りました。この戦いに勝利したポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の領土をもつ強国として最盛期を迎えました。 毎年7月中旬になると、この中世の戦いを記念してグルンヴァルト村の戦場跡で戦いを再現するイベントが行われ、国内外から毎回多くの観客を集めています。2010年3月にはリトアニア共和国のウンブラサス副国防相がポーランドを公式訪問してポーランド政府側と会談し、ポーランド王国とリトアニア大公国が協力して勝利したこの戦いの600周年を記念して、2010年からはリトアニア共和国も国を挙げてこの祭りに参加しています。 (写真は当時戦いのあったグルンヴァルド村です) 関連記事 / Related posts: Bitwa pod Sekigaharą
海のイメージがあまりないポーランドではありますが、北部はバルト海に面しています。海に面した有名な観光地といえば、昔の面影を残したままの美しい旧市街のあるグダンスク。ポーランドではこの街と近隣2つの街、ソポト(Sopot)とグディニャ(Gdynia)を合わせて“3つ子の街(Trójmiasto – トゥルイミアスト)”と呼んでいます。今回はポーランド人の海水浴の定番であるソポトをご紹介します。 ソポト(Sopot)はグダンスクから車で北に30分ほど行ったところにあります。グダンスクは観光地ですが、ソポトはあまり観光するところはありません。有名な桟橋(Molo)くらいでしょうか。歩き回って楽しむための街ではなく、ビーチでのんびり過ごす目的の人たちで賑わっています。夏休みの天気の良い日は、水着を着た人たちでビーチは大賑わい。桟橋のすぐ横にあるグランドホテルは、マレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボも宿泊した由緒あるホテルです。 ビーチに飽きたら賑やかなボハテルフ・モンテ・カシノ通り(ul. Bohaterów Monte Cassino)へ行ってみましょう。ポーランド人が“モンチャック(Monciak)”と呼ぶこの通りには、アパレル店やレストラン・カフェなどが多く並び、シーズン中はとても混雑しています。またクラブなどもあるため、週末の夜は地元の若者たちで賑わっています。 さて、海沿いに来たらはずせないのはやはりお魚。ビーチ沿いにはお魚料理専門のレストランやバルがたくさん並んでいます。燻製にしたお魚を売っているお店も多くあり、日持ちするのでちょっとしたおみやげにもピッタリです。お店によってはその日にあがった鮮魚を売っているところもありますが、種類は多くはありません。 ちなみに海に来たポーランド人が必ず食べる(らしい)のがワッフル。ポーランド語ではGofry(ゴフルィ)といいます。このワッフルに粉砂糖をいっぱいふりかけて、もしくは山盛りの生クリームの上にフルーツやジャムをこれでもかとトッピングして食べるのがポーランド流。ソポトでなくとも、海沿いの町にならどこでもあるのでぜひ一度試してみてください。ひとつでお腹いっぱいになることうけあいです。 関連記事 / Related posts: ポーランドの海水浴場 シャビーなヨーロッパの雰囲気を味わえるカフェ (K:KOの雑記帳) ハラ・ミロフスカ (Hala Mirowska) クラクフで果実酒をお探しなら (Szambelan – Kraków) うめちゃん、バルト海に行く(ワンコと暮らすポーランド)
Edo Kiriko 江戸切子 jest to japońska tradycyjna sztuka zdobienia szkła pochodząca z końca okresu Edo. Mówi się, że stworzył ją pracujący w małym sklepie z wyrobami szklanymi w Edo (Tōkyō) Kagaya Kyubei 加賀屋久兵衛, który skopiował jeden z angielskich wyrobów szklanych w 1834 roku. W 1876 roku powstała fabryka szkła w Shinagawa. Była to po części zasługa polityki prowadzonej przez ówczesny rząd, który poprzez promowanie nowego przemysłu, chciał szybko dogonić rozwijający się Zachód. Fabryka w Shinagawa jako pierwsza w Japonii rozpoczęła masową, nowoczesną produkcję wyrobów ze szkła. W 1881 angielski inżynier Emmanuel Hauptmann, znawca nowoczesnych technik cięcia szkła został zaproszony do Japonii aby nauczać Japończyków ów metod. W konsekwencji poprzez połączenie […]